アトリヱへ立ち寄つてみると、置き残してきた珍客兄妹に異常はなく、思ひがけないことには、秋子とあぐりとこれも同じ画学生の巨勢《こせ》きそのといふ有閑婦人の三人が我物顔にアトリヱを占領してゐた。
巨勢きその(木曾野と書くのが本当で、父親の木曾の役人時代に生れたのだと言ふことである)は三十五六の富裕な未亡人で、金と行動が至極自由になるところから、自然十数名の画学生から党主的待遇を受けてゐたが、その割合に我無者羅でなく、ある優しさと弱々しさのつきまとふのが、がつちりした娘子軍に利用されながらも、先頭に立つた家鴨のやうな愚劣な形になることがなく、深さある人柄を感じさせるのであつた。
ところが或る日、女画学生のズラリと並居る面前で、私は突然この弱々しい婦人から誰憚らぬ高声で極めて単刀直入に普通決して人前で言ふべきではない話を受けた。言ふまでもなく木曾野は東京に住んでゐたが、この日は何かの都合があつて静浦の別荘へ泊らなければならないと言ふのだが、汽車道の長さもやりきれないし別荘の寂しさも堪らないから、四五日滞在の心算で私に一緒に来てくれないかと言ふのであつた。
「貴方お一人だけ来ていただきたいのです。大勢来ていただいてもおもてなしも出来ませんし、陽気に騒ぐでもなく、語りながらブラ/\一緒に海岸を歩いて下さる方が欲しいんですわ。伊豆の西海岸は余り知られてゐませんけど、湘南の海岸に比べたら、もつと本格的な堂々とした風景ですわ。額縁の中の絵のやうに調《とと》のひすぎたきらひはありますけど」
私は衆人看視の中で、なんの言葉をかざるでもなくいきなり真向から右様の招待を受けたものだが、だいたい私はこの日までこの人と個人的な対談をしたことすらなかつた。呆気にとられたのは私一人のことではなく、並ゐる婦人の表情には一様に侮蔑をふくんだ驚愕がおし流されたほどであつた。然し木曾野は人々の驚愕や侮蔑が想像すらできないやうに無関心だつた。
「江の浦から水津《みと》のあたり折があつたら散歩したいと思ふんですけど、歩いたことすらないんですの、一緒に来ていただけたら、あたし歩きますわ、一晩でも。砂浜がありませんの。それが生憎ですけど、海岸から手にとるやうな近いところで大謀網《だいぼうあみ》をしめてたりしてましてよ」
相変らずザックバランに淡々と言ひまくるこの人の顔付には陰がなかつた。驚愕や侮辱の情が戸惑ひするほかに術《すべ》を失つた人々は、後々この出来事を思ひ出して興味的な話題にする根気も手掛りもないほどだつた。私は極めて因習的な羞恥感から反射的に理由のない躊躇を覚え一も二もなく招待に応ずることのできないむねを答へたのだが、むしろ私の羞恥感がこの時いかほど不自然に見え、私の心労が醜怪に見え、私自身の立場のみが見窄らしく感じられたか知れなかつた。
さういふことがあつてから数ヶ月後、品川駅前の広場をたつた一人歩いてゐるこの人に出会つた。もとよりアトリヱでは屡々顔を合はしてゐたが、二人きりで出会ふ折はなかつたのだ。私達はお茶をのんだ。
「ナポレオンは悪性の頑癬に悩まされてゐたんですつて? 頑癬の痒さで眠れない夜寝床の上をのたうちながら大遠征を計画したんですつて? 頑癬のひろがるたびに版図も拡大したんですつての? ほんとでせうか?」
「さういふ暗合もあつたかも知れませんね」
と私は答へたが、婦人にはチョコレートを語らしめよといふチエホフの意見の通り、この有閑未亡人のチョコレートに私は深く耳を傾けもしなかつたが、夫人は厭味のない爽快な語調で、歯切れよく語りつづけた。
「ナポレオンはインポテンツだつたんですつて? ほんとでせうかしら?」
「然し子供があるぢやありませんか?」
「ワイマールでゲーテに会つたんですつてね。そのころゲーテは六十過ぎのお爺さんでワイマールの宰相なんですつて。部屋へ這入つてきたゲーテを見ると、ナポレオンは突然これは人物だつて叫んださうですわ」
「さうですか」
「でもそんな直感はナポレオンの偉さの証明にはなりませんわね。子供のやうに独断的ぢやありませんの? まるでだだつ子のやうに」
「さうかも知れません」
「スタール夫人はナポレオンを攻撃しすぎて巴里退去を命ぜられたんですつてね。スタール夫人の印象によると、ナポレオンは暴君とも違ふんですつて。優しくはないけど残酷でもなく誰に比べやうもない人物で、親しみも同感も受けないやうな人なんですつて、此方の感情も全然先方へ通じない人、ナポレオンに会つてゐると、人間を一つの物として見てゐるやうで少しも同類と思つてゐないといふことが、圧迫する力となつて感じられたさうですわ。社交や教育で涵養された品性とは何の関係もない強い力に打たれるのが普通で、思想や意志の力とは別な、たとへば人類に対して一片の好感の閃めきもまぢつてゐな
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