会ひには来てくれるなと伝へてくれと言ふのだよ」
長平は朦朧と目をつむり、耳を押へた。
「耳鳴りがしてゐるな。又近頃持病がすこし激しいのだよ」
「君にどんな話を語つたのだ?」
「親父がくるので暫く家へ帰れない、それは兄貴も承知だと言ふのだ。然し僕の部屋へ泊つたことは秘密にしてくれとゆふべのうちは言つてゐたのだ。僕はとにかく圧倒されたよ。なんのために僕の部屋へ泊る気持をもつたのかと考へてみたのだ。行く場所がなかつたためか? 僕に身体を許すつもりか? 正直なところ僕はそれを第一に頭の中でなんべんとなく反芻しつづけてゐたが、結局身体に指一本触る勇気も起きなかつたよ」
「そこを見抜いてゐたのではないか?」
「さうかな? 僕は然し……」
長平は耳から両手を離さなかつた。
「僕の正直な感想を言ふと、あの人が僕を訪ねてきた気持はある程度まで娼婦的な、言ひ寄られたらどうなつても構はない気持が多分にあつたと思はずにゐられないのだ。勿論愈々こちらが言ひ寄る段になつたら、その時はその気持が又どう変つたか分りやしないよ。然しすくなくとも訪ねてきたときの気持は。……僕はその気配にひどく圧倒されたのだ。男、特に僕如きは眼中にない、それがひとえに娼婦的な意味で、ゆふべは特に、その感じが凄いものだつたね。直接それを表明するあの人の言葉はないんだ。全てがただ感じなんだよ。それだけに無言の肉体がやりきれない圧迫で、僕はなんべんその気配にまきこまれやうとしかけたか分らなかつたのだ。僕は一晩中のべつにサミュエル・バトラのエレホンをめくつてゐたが、牧童が酒をくすねるといふたつた一つの場景につかえたきり、どの頁をめくつてみても頭も眼も空転りをつづけてゐるのだ。僕は嘗てこんなにも強烈な無言の媚態で言ひ寄られたことはなかつたし、あの人の全ての感官が無言の肉体を通じて僕に言ひ寄つてゐたのだと確信せずにゐられなかつたよ。僕の肚の底を割ると、一人の稀代な妖婦を始めて目のあたり見た感じだつた」
淫蕩の血は私の血族に流れてはゐる、それを充分承知の上でも妹の行動は私にあまり唐突であつた。とにかく妹に会つてみるほかに仕方がない。頭の中でどのやうに解釈しても始まらなかつた。私は然し妹に会ひたい気持が全然なかつた。あいつのやりたいやうにさせるがいいさ、と私は肚に呟いてゐたのだ。家庭を逃げたがらない人間がこの世に一人とあつてならうか! それが性的な衝動によるなら、それはそれでいいぢやないか! 妹のコケティッシュな裸身がくね/\と否応なしに私の脳裡に蠢めきまはつてゐるのである。然しそれが特に不快でもなかつたのだ。
私達は然し長平の下宿の方へ歩いてゐた。下宿の前へ辿りつくと、鈍重な足の運びでひきずるやうに歩きながら、背をまるめ黙りこくつて歩いてゐた長平が、ふと自分の部屋をぼんやり見上げて呟いてゐた。「ゐるかな? ゐないと思ふが……」と。その予感は的中した。私がむしろホッと重荷を下したことには、まぎれもなく長平の部屋のどこにも妹はゐなかつた。書き残したものもなかつた。私は暫く妹に会はずにゐたい思ひがしたのだ。妹の魂が汚れてゐるなら、魂の汚れと同じ線まで肉体の汚れることを望む思ひがむしろ私の心にあつた。
――お前もひとたび家庭を逃げる人になるなら、行きつくところまで行きついてみるがいいのだ。中途半端な娘気質の気位はむしろ御免だ。そんなお前を見ることは、救はれない私自身の血を見るやうに私に苦痛だ。淫売婦の汚れきつた肉体になつて、肉は膿をもちズダ/\にさけて帰つてきても私は決してお前を叱りはしないだらう。むしろ私は一息ホッとつくかも知れぬ。私達ははじめて兄妹になつたのだぜ、と。しみじみと始めて話を交さうぢやないか、と。
私は心にそんなことを呟いてゐた。とはいへそれも感傷的な、自暴自棄な、要するに若干の悲愴を気取る甘さのせいに他ならないと言はれても、私はたしかに一応は返す言葉がなかつたのである。
それにつけてもその宵は私達の遺伝因子が上野駅へ着く筈であつた。因子上京の報ひとたび伝はるや、因子自ら雄姿の片鱗だに現はさぬうち生殖細胞の混乱たるや件《くだん》の如し。私は然し冷酷なまで冷静だつた。
その三 少女予言者を訪れて
五月十一日――と、改めて言ひだすまでのことはなく、これは前章と同じ日で、即ち妹の失踪の翌日、私が長平に呼び起されて妹の不可解な行動を確かめるために彼の下宿へ赴いたその当日、この夜は父が上京の筈であつた。
妹の行動が私に大きな衝撃を与へたといふ言ひ方は全然当らないが、然し一人にもなりかねた私は、恐らく同じ思ひの長平と油の乗らない沈黙がちな対坐にすつかりくたびれてしまひながらも、思ひ切つて立ち上る勇気がなかつた。正午近い時刻になつて昼食のために肩を並べて外出した二人が一旦
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