、わけもなくただ無意識に訝つてみるそのあとで、しまつた! と私は急に理由もなく叫びだしてゐるのであつたが、その状態のこまかな描写は私にも無論のこと、恐らく読者にも無用であらうと思はれる。ただ一言附加へて言へば、秋子が私の不在によつて殆んど茫然と暗闇の道を帰る姿が、身を切られる思ひともなり、切なく胸にせまつてきたのだ。
それは何故だ? 今それをきくな! 又私は答へまい。答へやうとも試みまい。恐らく明確に答へることは出来ないのだ。やがて私の行動が曲りくねつた過程のうちに何か答へるに相違ないから。実際のところを打ち開ければ、この微妙な心の動きをとりあげる差し当つての必要は毫もなかつたものである。然し、記るさねばならぬ理由もあつた! 私がやがて後章に於て起すであらう行動がこの場の心事に照らし合はせて如何にも奇怪であることよ。その秘密。すべて宿命を拒否し、しかも尚宿命のごときもののカラクリを最後に凝視めねばならぬとすれば――今は然しそれに就て語ることはできないのだ。
私は斯様な饒舌のうちに、これから語りださうとする新らたな出来事に対して読者の興味を甚しく失はせはしなかつたかと怖れてゐる。実際思ひもよらぬ出来事がこの日をきつかけにして起つたのだ。
その夕暮一通の電報が配達された。父からのもので、明日午後八時半着の急行で上野駅へつく筈だから迎ひを頼むといふ意味だつた。発信は三条。私はその文字を凝視めながら、妹の嘗ての亭主をとりまいて、父は昔馴染の三条芸者を口説きかへしてゐたのではあるまいかと疑ぐつたりした。然し三条の隣り町の見附には父の実妹の嫁いだ先もあつたのだ。
夜になつた。妹が突然部屋へはいつてきた。手にびら/\と一枚の用箋をひらめかしてきたが、それを私に読めと言つて差し出した。文面は次の通り。
――親父の顔が見たくないので在京中は暫くほかへ行つてゐます。帰郷次第元気よく戻るでせう。呉々も御心配なく。(原文のまま)
「これはお前が書いたのか?」
「さう。それを置き残して黙つて出ちまふ筈だつたけど、やつぱり言つといた方がいいと思つて」
妹は悪びれた様子もしてゐなかつた。とはいへ強ひてする明るさと、物憂いものに見えさへする誇張された呑気な様子が私の気持を暗くしたのは否めなかつた。
「どこへ行くのだ?」
「それだけは訊かないで。答へないことに決めてあるから」
「はやりものの女給か? 別に心やすい友達もないやうぢやないか」
「友達のうち。それだけは言つとく。言ひたくないのよ、それだけは。だから黙つて出かけやうと思つたの。私だつて大人なんだから自由にさせてよ。言ひたくないことだつて、案外ごくつまらない理由かも知れないけど、さういふことがあつたつていいぢやないの」
「誰も自由を妨げてゐないよ。無理に訊かうとも考へてゐない。俺はただ大袈裟な騒ぎがきらひだよ。疲れる、退屈だ。家出するほど大袈裟な事情なんてありやしない。お前のどこかに甘やかされ増長した計算があるのだ。考へただけでも胸糞がわるい。お前が自分すら偽り通してゐるならとにかく、さうでなかつたら他に言ひ方も、何か方法も有りさうぢやないか」
「親父の顔さへ見なければ憎くまずにゐられるもの。憎くがるのは相手が誰に限らずいやだ」
「そんなことはいい加減な嘘つぱちだ。誰だつて一思ひに家ぐらゐ飛びだしてみたいや。親父の顔に関係のあることぢやないよ」
この言葉は即興的な、かなりお座なりなものだつた。続いて起つた出来事に対して決して何等の洞察も含んではゐなかつた。第一私は人の身をそれほど真剣に考へてゐない。のみならず、私一人の肚の中では、かうは言ひながら寧ろ女の異常神経では厭な奴の顔を見るのが身の毛のよだつ思ひがする、さういふ場合もありうるだらうと考へてみたりしたのであつた。
妹は宣言通りその夜いづれへか出掛けてしまつた。
翌朝七時前のことであつた。赤城長平が寝不足な顔付をしてやつてきた。私を叩き起してから、この鈍重な、動作の至つて緩慢な男は暫く私をぼんやり凝視めてゐるばかりであつたが、
「君の妹がゆふべ僕の部屋へ泊つたのだよ」
と、彼は細い幽かな声でぶつ/\呟いた。私はびつくり顔をあげたが、長平はふだん通りの悄然たる泣顔の一種で、ぼんやりと私を凝視めてゐた。
「それをわざ/\知らせに来てくれたのか」
「さうぢやないよ」と、再び幽かに呟いた。
「僕は一晩ねむらないのだ。あの人はかなり熟睡してゐたよ。今朝目覚めると突然僕に命じるのだ。あの人が僕のところへ泊つたことを君に知らせて欲しいといふのだ。迎へに来てくれと言ふのですかと尋ねると、さうぢやない、ただ知らせるだけで充分だといふ、会ひたくはないと言ふのだ。明日からの行動はもう一々知らせることはしないし、どこへ行くか分らない、然し今日もわざ/\
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