な夜の道へとびだした。と、私はすこし考へ違ひをしてゐたのだ。
 夜道へとびだしてみると、私の意志に唐突な変化がしかも歴然と形を占めてゐることに驚きながら気がついた。三千代を訪れる張り合ひが影も形も失はれてゐた。もはやそこへ行くことはできない。さればとて、何をする、何事をしたい当てもない。私の頭に次のやうなとりとめのない想念が流れこんでくるばかりであつた。
 第一に、あの女はお前の父の三千代ではないか! これはどうも厭なことになつてきた。然しさうだ、と私の心が呟いてゐる。
 第二に、お前の親父はあの女から着物も指環も剥ぎとつた。お前は奇妙な出来心で二千円を運んでゆく。さて、どつちのどこに誤魔化しがあるのだ? この考へは捉へやうのない混乱をもたらしてくる。と、お次はふいに秋子の顔が私の苛々した頭一杯に浮んでくるのだ。それは恰もお前の隠された本音は表面の冷淡さや憎しみにも拘らず秋子へのどうにもならぬ恋慕にあるのだといふやうに見え、私はぎくりとしながらも嘘だ! と叫ばうとして、それも無意味に思はれる冷めたい放心に落ちて行くのだ。
 斯様な心の状態では、どのやうに自分の心を駆りたててみても結局三千代を訪れることはできなかつた、それも仕方がなかつたのだ。私は例によつて例の通り見知らぬ居酒屋の暖簾をふいとくぐり、酔うては色餓鬼のやうに遊里をうろついて一夜を明した。
 私は酒の酔ひもかりて、こんなことを考へてゐたのだ。
 ――あの太々《ふてぶて》しい親父の奴が、弱つたやうな様子はしても、どうして弱つてゐるものか! 今に東京へ現れてくる。まさかに女がアトリヱに待ちかまえてゐやうとは夢にも思ふことはあるまい。そこであいつがどんなことをやらかすか? こいつは観物だ! そいつを俺の手本にしてゆつくり考へ直してもおそくはないて。

 私は然し三千代に対する私の態度(憐憫の情以外には多くのものを感じないその感情生活を含めることは勿論)をかなりの点まで是認しつづけてゐたのであつた。私の態度を是認するといふよりも、彼女が私に騙されてもいい、愛すふりをしてくれといふ(――本心からさう思ふ女が果してあらうか! けれども我々の現実では多くのものが常にこの程度の妥協をせめての最上としてゐることも否めない)その言葉を或る程度の本音と読んでゐたがために、結局は三千代を騙しつづけてゐる私の感情生活に比較的な正当を是認しつづけてゐたのであつた。もとより私は彼女を一枚の紙屑のやうに捨て去ることによつて、決して一文の損も受けない立場にあつた。法律上の制裁を受けやう理由もなく、恐らく新聞種になることすら有り得やうとは思はれなかつた。三千代はかねがね私に向つて言ふのであつたが、私の本心が彼女を厭ふやうになつたら憐憫の念をすて生殺しの殺生をせずに一思ひに有りのままを打ち開けてくれと。(愛すふりをしてくれといふさつきの言葉と逆であるが、激した感傷の表現にはその時々の独立した真実性もあるべきである)その宣告は何物よりも怖ろしく悲しいことは無論であるが、その日までの幸福に感謝する思ひはあつても、決して私を恨むことはないだらうといふのであつた。斯様な表現には通俗小説や映画的な多分に偽られ又無批判な陶酔気味が見受けられるが、それが彼女の行動の幾分を実際に規定する尺度となつてゐる今日、あへて私が彼女のために私流の批判を加へる必要はないのだ。私はたしかに或る程度の彼女なりに本気なものをそこに読まずにゐられなかつた。要するに外部的なあらゆる条件に於て、私は三千代を捨てることに一分の束縛も受けてはゐない。(のみならず、束縛、制裁、損失!――もとより稚気満々たる英雄気取りの気負も多分にあることをひと先づ一応は認めるにしても、私は損失や制裁を世間の常識が怖れてゐるほど怖れてはゐない)三千代を捨てる全ての力があげて私の自由意志によるものであり、私は自らの憫憐の情を必ずしも不当のものとはしてゐなかつた。
 私は二人の訪客をアトリヱに残して一夜遊里を彷徨し、翌日の正午すぎて帰宅したが、その日私の胸に受けた一つの必ずしも大きくはない心の動きを決して見逃してはならないのだ。三千代に対する態度の是認がかなり根柢からぐらつきだしてきたのであつた。
 話は至極簡単であつた。私が帰宅すると、出迎えた妹がへきなり私に言つたものだ。昨夜|晩《おそ》く秋子が私を訪れてきた、と。別にことづけはなかつた、と。挨拶のほかに殆んど言葉を残さずに、如何なる心も読むことのできぬ平静な然し失はれた表情をして帰つて行つた、と。
 私の心は忽ち顛倒する混乱の中へ投げ入れられた。混乱、自失、耳鳴、無言、無表情、化石の暫時の時間の後、私は書斎へはいり、この状態を沈めるために異常な長い放心を持続しなければならなかつた。
 なんのために来たのだらう……と
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