れがほんとの姿だらうか? 今頃はどこの宿で無銭宿泊をして、さあ一思ひに殺してくれと力みかへつてゐることか。その様追はるる予言者の如し。親父が東京へ現れるまで貴方方は自宅のつもりでここに泊つてかまはないですよ。さうする方がいいでせう。貴方は酒を、のみますか?」
男は頻りに盃を辞退しながら口数のすくない食事を終つた。女は地方で「だるま」といふ村の居酒屋の女のやうな風采で、ああ栗谷川文五も人生を終らうとして斯様な女に辿りついたかの感深く、さればとて秋風落莫たる愁ひの中に一本の葉の落ちきつた柿の木を眺めるほどのまともな感慨があるでもない私は、骨董品但し下手物《げてもの》を玩味する眼でひなびた達磨風俗に興を覚えてゐたのであつた。
「八重も色々お世話になつたのですし、旦那も落目のことですし、無理なことをしてもらをうとは思うてゐませんが――」と、栃倉重吉は田舎風の律儀なずるさによつて口べりに深い一条の笑皺を刻みながら、やや寛ろいで言ふのであつた。
「今更奥さんにしてくれの、それが厭なら手切金のと言ふ気持はみぢんも持たないのです。旦那が落目の時はこちらで一骨折られる身分ならしたいのですが、私等もその日暮しの身分で妹をやくざな働きにだしてゐる有様であつてはそれも夢のやうなことで、せめて旦那のために八重が質に入れた自分の持物を受け出す金額だけでも融通していただけたらとかう思うてゐるのですが――」
「私はさうぢやない。着物も指環もいらないけど……」と、女は羞ぢらう気色で横手を向きながら小さく呟いた。
「私のやうな者でも置いて下さるなら、どんな苦労をしてもいいし、裸で暮らしてもくやまない。旦那に殴られても蹴られても殺されてもかまはない」
暫くのうち男は無言で、うつむいたなり別に表情の変化も見受けることができなかつたが、突然顔付を歪め泣顔に変り恨むやうに妹を偸《ぬす》み見た。
「あれほど呉々《くれぐれ》も言つたではないか。お前もよく納得したことではないか。今更そんなことを言つてどうなるものか。第一旦那とは身分も違ふし、それに旦那はどういふ巧いことを言つてゐたか知れないが(かう言ひながら男はチラと私に視線を送り、その瞬間は口を噤んだが、顔を伏せて、もはや泣言か口説のやうにしめつぽく綿々と言ひはじめた)旦那衆は女遊びに馴れてゐるから儂《わし》ら土百姓と違つて女を喜ばせる手管も巧いしよ、あげくに捨てられて馬鹿を見るのはお前のやうな学問もない器量も悪い女ばかりよ。これが田舎女でも芸者衆とかれつきとした料理屋の女中といふなら話は別だが、お前なんかは土百姓でも真面目な男は相手にしない素性の女で、大福に目鼻をつけた器量ぢやないか。よくせきの零落でもしなかつたらあのすき者の旦那がお前風情を相手にするものかよ。旦那は生れついての放蕩者で、かう言つてはなんだが儂らの土地でもさうたんとある人ではない、血も涙もないといふ噂もある人で、そこが場馴れた話上手でどういふ殺し文句を言つてゐるか知らないが、言葉の通りを真に受けて貰ふべきものもいらないの晴れて一緒になるのといふ夢のやうなことは考へないものだ」
「兄さんに買つて貰つた指環でも着物でもあるまいし、私がいらないといふものなら黙つてくれてもいいぢやないか。私はさうまでして旦那と別れやうと思つてゐないもの」
「俺が金のことを言うてゐると思つてゐるのか。まあいいさ。お前はさういふ馬鹿な女だ。いいか。俺の言ふ大事なところはここのところだ。旦那は生れついての放蕩者で何十年このかた近所近辺の嗤はれ者だが、持つたが病でこの齢になり乞食のやうに零落はしても浮気はやめられない。町の人には見離され昔の馴染も相手にしてくれなくなつても、それがあの人の報ひで世間の道理といふものだ。すこしでも物の道理を弁えた者ならあの旦那を相手にしないが当り前で、憫れみをかけるも阿呆といふのが普通ではないか。お前が馬鹿なばつかりにその極道の旦那に心中立てをする、世間の物笑ひになるばかりか旦那も陰で赤い舌をぺろりと出して笑つてござる、そのざまに気の付かないのがなさけないとこの俺が言うてゐるのだ」
「殴られやうと蹴られやうと騙されやうと殺されやうと私が好きなものなら」
と、女はかすかに泣きはじめた。
「馬鹿でもずべたでも私も苦労した水商売の女だもの、私なりに男は見てゐるよ。あの旦那のいいところも見てゐるよ。それで騙されて本望なら兄さんは黙つといでよ」――
こんな陳腐な情景を綿々と描写するのは私自身もやりきれない。然し有体に白状すれば、当事者としての私はこの情景に眼を背けたいとも思はなかつたばかりか、若干の好奇心にかられて事のなりゆきを見終りたいと思つたほどだ。然し私の心に明滅する三千代訪問の決意はそれを自由にもさせなかつた。私は彼等に眠ることをすすめておいて爽やか
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