子供が気の毒でといふ月並な言ひぐさなぞは恐らく用ひもしなからう、彼はただ徹頭徹尾遊蕩に暮した。私の記憶によれば、この父の代ですらなほ家運隆盛な一時期もあつて、ひところ四五十台の機械|機《ばた》を動かした頃なぞが目に浮かぶ。その頃は恐らく全町の機屋でも屈指の盛運にあつたのだらう。中学を卒へてから私は遊学のため上京叔父のもとへころがりこんだが、已にそのころ満身創痍の態にあつた傷心の叔父に懇望され、夏は山、冬は南海へといふ式にまことに道行のやうな愚劣な旅をつづけねばならず、帰省する折がなかつた。ひと春妹の縁談がおこり帰省すると、家に三台の機《はた》がのこされてゐるばかりであつた。三台といへば、わずかに一人の女工によつて動かすだけの数である。その機が妹の結婚によつて又何台か数がふえたといふのだが、いはば妹は体良く身売りをしたのであらう。当時の父は三条の子供のやうな若い芸者にべた惚れのとんと深草の少将で、後日判明した次第によれば、妹の婿は当時父と最も昵懇連日座敷を同うした遊び仲間であつたといふ。然し父とは年齢の離れた三十前後の若者で、重なる遊蕩によつて独特の人品を具えた田舎紳士であつた。友情に軽薄な父であるが、この若者には恰も動物が動物に寄せるあの一種嗅感的関係に彷彿とした不思議な親愛と敬意を払つてゐたのであつた。
妹は半年足らずのうちに離婚した。性病に感染し不具者になるところは免れたが、父がとんと田舎紳士の腹心で、癪にさはるほど言はでもの弁護をする、妹の泣言には一々向つ腹を立ててしまふ、悪徳の正義に就て情熱の最後の滴まで傾注した訓話を述べるといふ始末で、あげくの果には婿と手をとつて遊興に出陣する態たらくに居堪《いたたま》らず、妹は婚家を、同時に故里を、父を、逃げて上京した。叔父のもとへころがりこんできたのだつた。生憎乍ら兄のもとへころがりこんだ身を寄せたと書くべき自信も気取りも持てない。叔父の奔走によつて離婚となり、爾来私と共にこのアトリヱに棲むこととなつた。
さて新らたな出来事は私が蕗子を上野駅へ見送つたその夕方からはじまる。昨日の約束もあることで、その日は三千代を訪れるつもりであつたが、とりあへず上野駅からアトリヱへ廻り、疲れた身体を休めるために豚のやうに寝床へもぐつた。長い熟睡が訪れ、目覚めた頃にはもはや黄昏が迫つてゐた。まもなく二人の見知らぬ訪客が現れたのだ。一人は四十前後の男、その連れは三十七八の女で、見るからに北国の暗い風土を彷彿たらしめてゐた。男は冗長な田舎言葉で、越後亀田在の栃倉重吉と名乗り、連れは妹の八重であると名乗りをあげた。
「旦那に一目会ひたいですが」
と、男の浅黒い顔に突然赤味がさしたかと思はれた表情の変化のうちに、どうやら突きつめた何かを見せて私に言つた。
「父! 父はゐない」
「さうでない」栃倉重吉は焦燥に身悶えるかに気色ばんだ。彼は妹を指しながらまるで咒文《じゆもん》を呟くやうに早口に言ひだした。「旦那に会はねばこれが死んでしまふかもしれないのです。三日といふもの旦那を探してゐたのです。芹沢さんが教へてくれないのです」
「父は五泉にゐないのですか?」
「十日も前に東京へ来てゐるのに! 立つ晩に八重に別れも言ひに来たし、停車場へ送りもしたのだ。家は空家も同然、機場はガランとして一台の機もなし、人が寝るに一枚の夜具もあるかどうか棲める場所ではなし、旦那は夜逃げしたのです。その汽車賃も八重がなけなしの財布をはたいてつくつたものです」
まてよ――と私はここで頭がカラになつた。私の眼に焼きついたのは彼等の異常な疲労であつた。その疲労から私は彼等の空腹をはつきり認めることができたのである。
その一日私の心は時々秋子が気懸りであつた。その姿は中枢神経にギックリひびく恐怖の一種で有りやうは恋情のたぐひであらうか? 然し激越なものではなかつた。チラと現れ淡く消え去る微細な心の波動であつたが、その発作がすぎたあとでは三千代のことが、恰も忘れた遠い故郷を思ふがやうに、暮れやうとする海洋のむなしい広さで心に流れてくるのであつた。さうして私の心では、喜びや休息の一片の予期すらなく、ただ暮れかかる海洋にまぢらうとする切ない放心にとりまかれながら、三千代を訪れる決意を反芻しつづけてゐたのだ。
私は三千代のことをぼんやりと思ひめぐらしてゐる自分に気付き、ふど我に返つて慌てながら訪客に言つた。
「だうぞ、まあおあがり下さい。一緒に夕飯でも食ひませう。親父はどこをうろついてゐるのだらう? あいつときたら年中自分のほんとの姿と大違ひの自分の姿を考へてゐるのですよ。ふだんは何もやれもしないが、愈々せつぱつまると三原山へ飛びこむ奴の無茶さかげんと同んなじ意気で、年中考へてゐた嘘の自分を実行しはじめる。結局我々の中途半端な生活ではそ
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