をふせてゐるやうにすら思はれたのだつた。私は暫く沈黙して私の疑念を虚しく追ひまはしてゐたが、思ひきつて顔をあげた。
「貴女の言葉は僕にまるで秋子さんの支配権があるかのやうに聞えます。言葉を換えて、もつと僕自身の肚の底を打ち割つた言ひ方をすれば、僕の愛情がもはや疑ふ余地すらないほど明確に秋子さんに向けられてゐるものに語られてゐるやうです。そのことを僕が疑らずにゐていいのでせうか? 貴女は何か御存知のやうですね。然し僕は全く知らないのです。分らないのです。これは皮肉ぢやありませんよ。他人の方が僕の心をずつと余計知つてたつて不思議なことはないのですから。自分が自分に向つてするあくどい偽りほど割りきれない奴はありませんよ。僕は弱つてゐるのです」
「だつて貴方は秋子さんを愛してらつしやるんでせう?」
「さういふ貴女の聡明な言ひ方が僕には困るんですよ。人情の機微を知りつくした媒妁人のやうに仰有《おつしや》られては困るのです。僕が秋子さんを愛してゐるといふことは一応ほんとかも知れません。その一応の真実から世間並みの結婚と幸福が算出されるかも知れません。然しさういふ常識が愛に解決を与へる筈はありません。もと/\僕は世間並みの幸福には徹底的に魅力を感じてゐないのです。これは強がりではありません。僕は断言できるのです。僕はワイフのカツレツが特に清潔だとすら思はないのです。一応の聡明さで、ワイフのカツレツが清潔だといふ中途半端な誤魔化し方をしただけでも芥川龍之介の錯乱を認めることができないのです。秋子さんの愛に就いて僕には全く自信がありません。余計なことかも知れませんが、あの人のほかに、僕には現に二人の情婦があるのです」
木曾野は真剣な顔付をしたが、そのどこやらに然し親しさが流れてゐた。
「いいぢやありませんか、そんなこと。秋子さんの今後の生活に責任を持つていただきたいなんて、あたし望んでもゐませんし、その心算でお話きいていただいたわけでもありませんわ。秋子さんがよしんば百人の情婦の中の一人だつて、それでいいぢやありませんか。とにかく静浦の別荘へ秋子さんをお預りすることだけは承諾してくださるんでせうね? これは現在の話ですわ。未来のことなんて考へてみたくもありませんもの」
「さういふ意味でしたら勿論不賛成を説《とな》へる筋はないわけです。然し、ちよつと、待つてください……」
私は何事か附け加へて言ふ必要にかられた思ひで言ひかけたが、私の脳裡は恰も中断されたやうに空虚であつて、もとより附け加へて言ふべき言葉があらう筈はなかつたのだ。然し私は言はねばならない気持であつた。この婦人に向つて何事であれ告白したい親しさに駆られたものであつたらうか? 然りとすれば私の無意識の肚裡に於て已に一つの姦淫を挑みかけてゐたことを認めぬわけにもいかぬであらうが、左様な意志を私は意識もしなかつたし、無意識のうちにそれらしい表情や態度をつくることもなかつた。私は火によつて背中から追はれるやうに口走りはじめてゐた。
「妹が昨夜家出したのです。妹の嫌つてゐる父親が今晩上京するからといふ口実ですが、むろん誰だつて一思ひに知らないところへ逃げて行きたいにきまつてますよ。今アトリヱへ僕と一緒に這入つてきた男があるでせう。赤城長平といふちよつと知られた懐疑的な新進作家なんですが、妹の奴昨夜はあの人の住居へ現れたといふのです。長平の報告によると、その一夜の妹の態度が、彼の始めて接した本格的な妖婦そのものであつたといふのですね。僕には長平の観察が決して狂つてゐないことを認めることができるのです。勿論妹がよしんば高橋お伝だつて、それがどうしたといふのです。そんなことで僕の心が悩んだり、悲しみにとざされるなら、僕はむしろ自分の純情に乾杯したいばかりですよ。そんな僕ならどんなに助かるか知れませんよ。これはキザな話ですが、僕は長平の報告をきいてこんなことを考へたのです。妹よお前の魂がそんなに汚れてゐるものならお前の肉体も同じやうに汚れてくれる方がいい。売春婦の肉体となり蛆虫を肉に宿して戻つてきても僕は決して叱らないばかりか始めてお前と兄妹になつたやうな偽りのない親しさを感じるだらう、と。これは勿論咄嗟なキザな感傷でしたよ。今ではそれだけの感傷すら持ち合はしてはゐないのです。無関心。こいつはたまらないことなんです。全然無関心に生き通せるものかといへば、どつこい決してさうは問屋で卸しませんよ。こいつが又生来中途半端なものとなると、どんな敵より凡そ不気味で妖怪的ぢやないですか? 無関心といふ奴が自分のほかにもう一人影のやうに朦朧と身近かに突つ立つてゐるのだと考へてごらんなさい。喧嘩をしても勝負のない勝負だと思ひませんか? 僕はたしかに秋子さんが好きなんです。僕の本心の一ヶ所には秋子さんに詫びたい気持
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