る。私は笑ひたくなるよりも、腹が立つてきたのだつた。もとより正直に立腹もしてゐられない。この女の莫迦さ加減を黙過してゐなかつたら、この女の短所をおだててゐなかつたら、己れの短所に甘える余地を剥奪したら、妹をあざむくことは容易であつても、肉体を許した女を欺くことはできないのだ。
私はここで余計なことだが一言附け加へたい蛇足がある。女のちよつとした感じによつて、物腰によつて、或ひはわづかにある瞬間の表情の美に惹かれたばかりで、私は女に夢中になることができるのだ。ヤ行の稚拙な発音に不思議な魅力を覚えただけで、何の取柄もない愚劣な女に暫く惚れてゐたことがあつた。然し私は唯一の女に惚れることができないのだ。一生は愚かなこと、わづかに瞬間が二つ移動するあひだには、恐らく二人の女のために心を奪はれてゐるだらう。そのこと自体は不幸でもなく特に幸福でも有り得まいが、一人の女に惚れきれないといふことが、余りにも明確に冷血な淫慾を知ることが、時々私を不安にするといふことを諸君は信じて呉れるだらうか? 私は蕗子と別れることに古着を棄ると同じ程度の感慨すら覚えぬことを知りすぎるほど承知してゐる。一週間の、一夕の、一時間の傷心が、別れの哀れが、なんの多足《たし》になるだらうか! その容貌に、その肉体に、その魂に、全く特別の用はないばかりか、蕗子が叔父の思ひものである点からも、別れることがむしろ私に有利の事情を生むばかりだ。それから新らしい恋のためにも。しかも私がそれを敢てしないのは、そこに私の淫慾をはなれた未練と恐怖があるからである。唯一の女に惚れきれないこと、それが特に私の不幸とも思はないが、斯様に牢固たる一生の予知を持つことが、私には並々ならぬ負担の思ひが強いのである。一言にして言へば、私は、一人の女に惚れきれないと信ずるがために、あらゆる女を手離すことが怖ろしいのだ。私が蕗子を手離さぬことも全く如上の理由の通りで、ただ一人の絶対の女を求めることが絶望の限り、蕗子は蕗子としての、雌鴉は雌鴉としての他に代えられぬ一つの絶対性を持つではないか。これは至純の愛から見れば全く論議の外である。蒐集狂の一スタンプ一切手一レッテルの存在価値がどの理由から一人の蕗子に劣るであらう! 然し斯《こ》んな大まかな独断的な放言は、心の底の微細な襞を誤魔化すために振り下した切れ味の悪い斧のやうにも見えるだらう。誰の心を探つてみても、袋小路や抜道のやうな恐れや策略があるものだ、と。然し私は、とりとめもない心の話に生憎こだはつてゐられない。解説に費す百万の語も心のまことの姿から遠距《とおざ》かるためにしか用ひられないものである。恐らく行為が、まことに近い解釈を与へる唯一の手掛りとなるだけだらうから。私はそれを言訳にして、話を先へ進めやう。
遊ぶためにしか存在しない女、しかも決して羞しめられてはゐない女、然し又人並以上の誇りも持ち合せてはゐない女、蕗子の場合がさうであるが、こんな女は莫迦のやうにたわいはなくとも、トラムプの女王のやうなゆとりと重さはあるものだ。この女が私の住居へ華美な姿態を現はすたびに、近所の眼には、私の形がジャックに見えたに違ひない。美麗な衣裳に包まれた空虚な頭脳とぼんやり対座してゐる時に、屡々私自身すら自分が一枚のジャックにすぎないもののやうな奇妙な想念に襲はれて苦笑を洩したものであつた。
その日私は、ひとつの貴重な約束の時間を、あと二時間の後にひかえてゐた。約束の場所へ出向く時間、多少の準備、それらの空費を差引くと、残る時間は多いものではないのであつた。冷静な又狡猾な頭脳の動きも、華麗な空虚をただ追払ふことだけで、勢一杯になつたのだ。
「叔父が自殺をするだらうなんて、考へられないことだ。第一、これはハッキリ断言できることだが、私と君の問題は叔父に気付かれてはゐないのだ。然し叔父を哀れな一人旅におつぽりだしておくのが気の毒だといふ理由で、君が万座へ叔父を迎へに出向く必要があるかも知れない」と、私は一語づつ噛みわけるやうな要心をもつて言ひだした。
私は話の途中から、もはや焦燥のために坐つてゐることもできなかつた。立ち上つて壁にもたれ、衝撃のために表情を忘れた空虚な女王を見下しながら、全身の注意をあつめて力の籠つた言葉をついだ。言葉の落付きにも拘らず、私の心は動揺のために、全くうはの空であつた。
「明朝万座へ出発しなさい。女中を連れて。さうすることが必要だ。、そして、数日山の湯宿に泊るのがいい。それから叔父を同道して戻つて来たまへ。出発は朝の一番上野発。仕度を急ぐ必要がある。地図や、それから旅に必要な品物を私がこれから買ひ求めて、夜の八時に君の家で会ふことにしやう。そのとき、ゆつくり話をしやうよ」
心に衝撃を受けたことと、愛人に会へたことと、その意見をはつ
前へ
次へ
全32ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング