向ける習慣である。以上の話から判る通り、私は常にむらだつざわめきの中に住み、小鬼に似た孤独の眼《まなこ》を光らしてゐるが、私はかかる寂寥に怖れはしないと叫んでおかう。若しも人が、又父が、妹が、当然の権利のやうに私の答へを求めるなら、私は忽ち顔を顰《しか》め、心の底では癇癪に浪立ちながら叫ぶだらう。俺は孤独だ。俺のほかの誰であつても、俺の心にきいてくれるな。ほつといてくれ!
 私は路傍の冷めたい人に、浮気女のそれのやうに、温い言葉を恵んでやらう。親しい人の愛の籠つた言葉には、冷めたい眼差を伏せるばかりだ。私の心は石のやうに冷めたく、さうして、ひらかないのだ。そのうへ冷静な計測器でもある。
 私は路傍の豚に対して背中を向けることもできやう。親しい友達に対しても背中を向けることができやう。肉親に対しても、亦《また》恋人に対しても背中を向けることができやう。然し同時にあらゆる人に背中を向けることができるか? 全ての甘さに頼る余地のない世界に、絶体絶命の孤独の心を横たへることができるだらうか? その予想は余りにも怖ろしい! それはこの現実に決して有り得ないばかりか、ただ予想として、可想の世界としてのみ実在もし、同時にその言語に絶した恐怖をかざして私の心に挑みかかりもするのである。悲しい哉、私の心臓はこんな架空な果の知れない恐怖に対して堪えきれるほどの強大な魔力が授けられてゐない。怖ろしい想像を弄ぶこと、それに怯えて立ちすくむことを私は避けたい。私はこの物語の中に於て、私の心を解説するのが主要な目的ではなかつたのだ。私はむしろ書きたい多くの人物と、出来事と、それの雑多な関係の中に投げ入れられた様々な物の様々な姿を見直す必要があつたのだ。私はまづ私の一人の叔父に就いて語りださう。
 私の叔父(父の弟)、芹沢東洋は、日本画家として相当の盛名を博したこともある男である。このところ数年間は執拗な神経衰弱に祟られて全く絵筆を執らないが、神経衰弱の原因は御多分に洩れぬ情事問題を別として、絵画そのものに対しての本質的な疑惑、不安におちこんだことが、原因に非ず或ひは結果であるにしても、とにかく懊悩の一つの根幹をなしてゐる。懊悩の根柢をなすものの第三が私――然しこのことは改めて語り直さう。私は先づ、齢不惑を越えること七歳の中老人が、年甲斐もなく恋にやつれて、飄然と行方定めぬ一人旅に出立したといふところから、この物語りを始めやう。
 考へてもみたまへ。私は中年の恋を嗤ひはしないが、青白い夢を忘れていい筈の男が、恋に狂はず、恋のもつ感傷に狂ふといふのは滑稽な話だ。正面からの体当りはどんな愚かしい場合でも嗤ふ余地はないものだが、この老書生は悲恋の古風な詩人的哀愁に酔ひ歎いて、行方定めぬ一人旅に出やうといふのだ。この男が出立に際して私に残した却々《なかなか》の名科白は次のやうなふるつたものだが、私は放浪にでやうと思ふと口をきるその前から、今にも涙を流しさうな悲愴な面持をしてゐたものだ。私は放浪にでやうと思ふ、と、選りに選つて臆面もなく大きな文句を言ひだしたのも話のほかだが、その次に、旅にでた一二ヶ月は便りを書く気持にもなるまいと思ふが必ず安否を気づかつてくれるなときた時には、グイと笑ひを噛み殺さずにゐられなかつた。正直のところ、若しも私がとめさへすれば、叔父は旅行を中止したかも知れなかつた。私がとめることを予期した上で、流れる感傷の快さにつひふらふらと旅にでるなぞと言ひだした、勿論私はそこまで残酷に言ひ切れないが、心に起つた実際を振返つてみると、あの場の前後の行掛り上私は一応留めねばならない義理に駆られた事実がある。然し私は、叔父の不在が私のある種の計画に願つてもない好条件を生むことになるので、いささか嘉《よみ》すべき道義的な想念の萌芽を文句なしにもみつぶしてしまつたのだ。予期に違はず、早くも出発して三月目に、旅の第一信が私の机上にとどいた。叔父は上州万座といふ月並な温泉にゐたのである。
 叔父の第一信を手にしてから一時間とたたないうちに、私は蕗子の訪問を受けた。まさしく玩具の人形のやうな、然し立派な肉体をもつた二十八歳のこの女は、芹沢東洋にかこはれた日陰に咲く花であつた。
 叔父はその旅先から綿々たる感傷を連ねた長文の消息を蕗子へ宛てて送つたのだ。それを蕗子は叔父の書置きと誤読した。それらしい明確な文句は一つないにも拘らず。然し蕗子は叔父が旅立つ直前から、彼女と私の関係を叔父に気付かれてゐるのだと疑ぐりだしてゐたために、叔父の取り乱した焦燥や、あはただしい旅立ちが、この問題を原因にした懊悩から由来してゐると信じかけてゐたもので、年甲斐もない東洋の一様ならぬ哀調を流した告白的文章にぶつかると、超躍的な戸惑ひをしたのであつた。勿論叔父の文章も正気の沙汰ではないのであ
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