きり聞くことができたために、一層の疲れが蕗子の失はれた表情の中に浮きたつてゐた。それ以上の私の言葉はもはや必要ではなかつたのだ。なぜといつて、それを咀嚼する根気もなく、何よりも全く理知の必要でない状態だつた。そしてただ本能によつて、私の強い抱擁だけを求めたい熾烈な希ひを、茫漠としたその蒼ざめた表情の中に、幽かながら根かぎりの努力をもつて表はした。私は蕗子を抱擁した。それから直ちに自動車に乗ると、蕗子をその家に送りとどけ、ついで私は重要な約束を果すために踵を返して横浜へ向つた。――

 芹沢東洋に三つの住所があつた。余談にわたるやうであるが、話を運ぶ都合上暫く脇道へそれて、芹沢東洋の為人《ひととなり》に就いて若干の言葉を費す時間を与へていただきたい。
 私の生家、栗谷川家は、越後平野の変哲もない水田によつて囲まれた五泉《ごせん》とよぶ小さな機業町に、代々機業を営んでゐた。景気不景気が同業を営む町全体に同じ浮沈を与へがちなこの町でも、栗谷川家はその代々の血管を流れる一様ならぬ投機癖のために、同じ浮沈を三倍にも五倍にも引受けるのが通例であつた。私の生家はもはや数代の昔から「ほらふきの家」と称ばれ、「山師の筋」とも称ばれ、時々は負けぎらひな「羽をむしられても喚きつづける鴉」のやうな精悍な気性を誇り得たことはあつても、むしろ概ね投機の打撃に打ちひしがれて尾羽打ちからした鴉のやうな乞食暮しをすることが多く、町民達の生きた「見せしめ」に引用されたり、笑ひ話の種になるのが普通であつた。さういふ一家の歴史の中でも芹沢東洋は特別ひどい逆境のさなかに生れた。二人兄弟の次男であつた。
 十一歳の春、芹沢東洋は小学校も卒《おわ》らぬうちに、縁故によつて京都のとある染物店へ丁稚奉公に送られた。
 十六歳の時、主家の縁戚に当る富裕な一未亡人にその画才を認められた。爾来この婦人をパトロンヌとして専心絵の修業に没頭することとなつたのだが、今に残る噂によつても、果してその画才を認められたものか、その容貌を認められたものか、判然としないと言はれる。それからの芹沢東洋は、名声のあがるところに必ずパトロンヌと金にめぐまれ、女と金と名声は恰《あたか》も三位一体のやうに彼の身辺を離れることがなかつたといふ。血気壮んな年齢に盛運を満喫したこの男は、調子に乗りながらもザジッグ的な厭世感をどうすることもできなかつた。彼はその年頃にシヨペンハウエルを最も熟読したと語つてゐる。不惑に近い齢を迎へて、最後のパトロンヌと入婿の形式をもつて結婚した。彼が芹沢姓を名乗るのは、この故にほかならない。女には先夫の子供が三人あつた。牝牛のやうに精力的で、悦楽のためにしか生きることを知らうとしない女の本能の迫力の前に、傷《いた》められ竦《すく》められた半生の姿をまざまざとかへりみながら、焦燥や怒りや悲しみを始めて痛切に感じたのだつた。女に愛された数々の記憶はあつても、心底から女を愛した覚えのない寂寥なぞも、いはば贅沢な感傷であるが、胸を流れた。それと同時に、又同様に、数々の絵を描き残しはしたが、ここに我ありと絶叫して悔ひない底《てい》の作品を嘗て物した覚えのない寂寥が、恰も女と表裏の関係をなすが如くに感傷の底につきまとひ、その焦燥や怒り寂寥悲しさを鋭いものにさせてゐた。
 扨《さ》て、蕗子は芹沢東洋が自分から働きかけた始めての女であつた。蕗子の愛をかちえた時、様々の難儀の後に、たとへば蕗子の家族との錯雑を極めた折衝なぞを乗り越えて、漸く蕗子を囲ふことができたときには、それが単に一女性の愛をかちえたことではなく、絵に就いても言ふまでもなく生活の全面に於て新らたな光りと出発を獲得したのだと熱狂して人にも語り、自らも固く心に信じたのは、一時の亢奮ではあつたにしても、贋物ではないのであつた。言ふまでもなく当時の彼の一方ならぬ寂寥や怒りや焦燥や悲しさから無我夢中に飛びついた一獲物ではあつたにしても、彼の心は偽りなしに、むしろ狂的なひたむき[#「ひたむき」に傍点]をもつて、全面の生活が、生命力が、ここに新らたに始まるのだと意気込んだのは無理に強めた空虚なかけ声ではなかつたのだ。勿論その正体は枯草のやうなものでもあつた。半年一年とたつうちには、始めの意気込みが過重な負担に変り、やがては形を変えてのつぴきならぬ絶望にさへ変つても、然も芹沢東洋は蕗子への愛と新らたな出発への光明をあくまで信じつづけてゐたほどであつた。
 芹沢東洋の囲ひ者となる時まで、蕗子は女子大学の学生であつた。生家も決して貧しくはなく、当然良家へ嫁して然るべき娘が、甘んじて不惑の書生の二号におさまるといふ異数の出来事を回想しても、私は当時の異常な情熱に燃え、熱狂に自失して最前線を疾走する傷ついた兵士のやうな猪突的な力強さで、蕗子の家族と折衝し、蕗
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