子を励まし、又自らの妻子への自責の念と正面から戦ひぬいた叔父の姿は直ちに思ひだすことが出来るにしても、その表情と血の気の失はれた、なにやら一途に思ひつめた白痴的な、単に考へてゐる人形としか思はれない蕗子の冷めたい額付のほかには、叔父の情熱に比較しうる何等の激越な出来事も動作も蕗子に就いて思ひだすことが出来ないほどだ。この決して平凡ならぬ境遇の変化に直面しながら、蕗子の心にどのやうな思案の数々が去来したか、私の見るところをもつてすれば、私自身に手掛りの掴みやうがないばかりでなく、恐らく蕗子を除く何人にも想像の余地がないのだと言はざるを得ない。然しながら蕗子は蕗子なみの考へ方によつて、むしろ或ひは決然たる断案の示すところにもとづいて、甘んじて芹沢東洋の二号たることを選びだしたのであらう事実も、亦私はこれを否定することができないのだ。
 この非凡なる凡庸婦人を相手にして全霊を傾けた愛情を捧げ、新らたなる出発の光明に向つて飛び立たうとすることは、雲峯を押し煙幕に飛びかかると同じやうに手応へがなかつたに違ひない。出来合ひの聖母マリヤか架空の佳人を守護天使にして窃《ひそ》かに溜息をまぎらす方が、むしろ絶望の息苦しさを多少ともまぬかれたに相違ないのだ。古風な詩的情操を多分に持ちすぎた不惑の画家は、蕗子にひそむ聖霊を信じ、それにからまる自らの新らたな光りを、然しあくまで信じつづけてゐたのだつた。地に足のない信念が知らないうちにどんな大きな心の重荷に変つてゐたか、どんな深い絶望に変つてゐたか、そしてそれがだういふ形で現れたか?――即ち芹沢東洋は突然生れて第二回目の恋をした。生憎のことには、再び私の恋人に。……
 私は先程芹沢東洋に三つの住所のあることを一言述べておいた筈だ。即ちその一つは言ふまでもなく妻子の住む本邸であり、他の一つが蕗子の住居であることも断るまでもない話として、最後の一つが特に静かな郊外に建てられたアトリヱであつた。このアトリヱには留守番の形で、私と私の妹が住んでゐたのだ。
 当然本邸に附属して建てらるべきアトリヱをだうしてわざわざ遠い郊外へ運びだしたか? これには芹沢東洋の深謀遠慮と、充分の必要があるのだつた。このアトリヱは愈々蕗子が彼のもの[#「もの」に傍点]に定まつたとき、倉惶《そうこう》として工を急がせアラヂンの城の如くに建てられたものだ。かう言へば直ちにそれと気付かれた読者もあらうが、要するに、絵の制作は第二として、妻子の眼には怪しまれず毎日蕗子を訪れるためには、不便な郊外に独立したアトリヱを建てることが必要であつた! そして又当然アトリヱに居るべき筈の東洋が実は年中不在であつても、不時の急場に誰怪しまれぬ言訳けもしてくれ仕事の応接もしてくれる腹心の留守番が必要であつた。その腹心がほかならぬ私であるのは聊《いささ》か笑止の次第であるが、甥でもあり、孤独の叔父には年齢の差が問題でなく二十歳《はたち》頃から唯一のコンフィダンでもあつたところの私をおいて、この重任を果すべき人物は地上に二人と有りえない。当時私は文科大学を卒へたばかりで職業もなく、そもそも私は小学校を卒業するから専ら叔父の出費によつて生育したものである。
 当時芹沢東洋は絵画そのものの本質的な疑惑、或ひは思想的な懊悩によつて、絵筆を握る勇気さへ失はれがちな有様であつた。従而《したがつて》このアトリヱはアトリヱ本来の面目を果すことが極めて稀れで、専ら主人の不在によつて存在理由も生じるといふ奇妙な役割を果してゐたが、然し一週に三回の午前中、十名ばかりの若い娘に絵の手ほどきをするといふ私塾の用に使はれてゐた。元来芹沢東洋は、そのペッシミズムから、責任をもつて弟子の教育に当るといふ余計な心労を厭うてゐて、絵によつて身を立てやうといふ弟子を専ら断はることにしてゐたが、或時近親の娘を託されたことが機縁となり、嫁入り前の茶の湯なみの稽古とか、有閑婦人の閑つぶしといふ責任のいらない場合に限り弟子をとることにしてゐたのだ。芹沢東洋が第二回目の狂乱的な愛慕を寄せた伊吹山秋子は、それらの娘の一人であつた。従而、いはばアトリヱの主ともいふべき私が、伊吹山秋子と特殊な関係を生じることになつたのも、決して偶然ではなかつたのだ。
 叔父が秋子にひそかな思ひを寄せはじめたことは、その時々の偽りきれない表現から、相弟子達は無論のこと、私にも分つた。その頃から叔父の生活様式が変化して、授業が終ると早速引上げる習慣の叔父が、弟子を相手にいつまでも無駄話をするやうになり、娘子軍《じようしぐん》の一隊を引率《ひきつ》れて、散歩や映画を見廻ることが連日のことになつてきた。勿論叔父の目的が一人の秋子にあることは誰の眼にも明らかで、娘子軍の話題にもそれが公然のことになると、一大隊の連日の散歩も自然芹沢東洋と
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