「づれも妖怪じみた老婆の話で若い娘のこの種類の話はきいたことがなかつたし、なにぶん四五軒隣りに起つた生々しい話なんでね。興味を覚えたところから、十日ほどまへ下宿の叔母さんが紹介してくれるままに、会つてみたのだ」
「ちよつと、待つた(二九太は突然性急に長平を制して、上体をぐッとのりだした)その娘がはじめて発作を起してブッ倒れた時の症候はどうだつたのだ? 精神的の打撃であれ、肉体的のことであれ、明確な刺戟の強い原因があつたのか? またブッ倒れてから嘔吐を催したとか、痙攣を起したとか、呼吸困難におちいつたとか、激しく咳きこんだとか、発作後は長らく消化不良に悩むやうになつたとか、或ひは当時最初の月経時に当つてゐたといふ事実はないのか?」
「さういふことは分らないが、発作の後は、動作に神経病患者通有の荒々しさが現れたとか、性的に大胆な不道徳を現すやうになつたとかいふ噂はきいてゐるよ」
二九太は苛々した激しさで頷きながら、性急な語調でなほも質問をつづけた。
「その後時々全身が硬直するといふ特殊な発作を起すことはないのか? これが大切なことなのだ。分らないか? それから感覚が転置するといふ異常な生理現象が起きはしないか? つまり視覚が耳朶に移るとか、聴覚が顎とか掌へ移るとか、嗅覚が足の裏へ転置するといふことなのだ。たとへば目隠しをしても手紙を読むとか、眼の前へ棒を突きつけてもあまり驚きもしないが耳朶に棒を近づけると急に威嚇されたやうに身を引いて『盲目になりますよ!』と叫んだり、同じことが嗅覚に就いても、たとへば、香水を鼻の下へもつていくが何の反応もない、足の裏へ香水をやると急速に反応を起して微笑し、鼻孔をふくらましてせはしく呼吸を早めるといふやうな現象が稀に起りはしなかつたのか? それ以来癲癇の発作が起きるやうなことはないか? それから趣味が突然一変したり思ひもよらぬものに熟練をみせるやうになつたといふ現象はないのか? たとへば非常に高級な音楽に感動するやうになつたとか? 突然乗馬とか庭球が非常に巧みになつたといふやうな現象だ。又睡眠が不規則になつて、あるときは二日も三日も熟睡するといふことはないか? それから、これも重大なことだが、金とか鉛とか鉄とかといふ金属に対して、特に鋭敏な神経的反応がありはしないか?」
「どうもそれもよく分らないが、とにかく物を透視することは確からしいね。常にさういふ能力があるといふわけでもないらしいが、たとへばひとつの亢奮状態におちこむと異常能力を発揮するらしいのだ。当らないこともあるらしいよ。千里眼の現象なぞは半分適中しないやうな状態ださうだよ」
「然しそれだけで充分だ! それは明確に Catalepsy といふ神経病の一つなのだ。日本語では一般に全身強直といふ訳名を用ひてゐるらしいが正確なことは分らない。見給へ。(彼は催眠術《ヒプノチズム》に関する分厚な文献を数冊探しだして我々の方へ持つてきた)ほらこの本をごらん。それから、この本もごらん。ヒプノチズムに関する限り先づ冒頭乃至は、とにかく本論にかかる前にみんな一様に一応ふれてゐるのがこの Catalepsy といふ症候に就いてぢやないか。つまりヒプノチズムを科学的に説明づけることは不可能であるが、然し Catalepsy なる神経病が存在することによつても、ヒプノチズムと人体との密接な関係を否定することはできないといふのだ。ことほど左様にこの症候は異常なものだ。勿論科学的に説明することのできないものだ。然し確かに在るものなのだ。十四五歳の少女の春情発動期に起るのが普通だが、稀には年増女、時には十五六の少年にこの症候の起つた例が文献に載つてゐる。この書物を見たまへ。これはロンブローゾの最晩年の著作で『催眠並に心霊現象の研究』といふものだ。主としてユサピアといふ霊媒に就いての実験を報告し、霊魂の存在を実証しやうとしたものだが、多数の実験の結果、それらの現象を科学的に説明することは不可能であるが、然し死後の生命の実在をそれらの実験によつても否定することはできないとロンブローゾは言つてゐるのだ。この本を出版するに当つては、世人の誤解を惧れるあまり彼の友人達が揃つて反対したらしい。実際この本に対しては、ロンブローゾの最晩年の著作ではあり、耄碌した世迷言だと見る人が多い。然し科学では説明のできない精神現象の存在に注目せずにゐられなかつた彼の情熱は、耄碌どころか、最も高度の知的巡礼者の敬虔な姿を見出したやうに僕には思へるのだ。この秘密に飛びつくことが科学の一つの重大な任務ぢやないか。生きる人間にとつてこのことほど重大な問題は少いぢやないか。ところでロンブローゾがこの著作の冒頭に取扱つてゐるのだが、矢張り御多分に洩れず Catalepsy に就いてなのだ」
「僕はこの少女の
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