O出することがありません。本と埃でいつぱいのこの男の部屋へはいると、糸のやうに痩せた若者が真黒の仕事着をつけて、然し精悍な山犬か狂人のやうな眼を光らせて一睨みづつ貴女方の顔を射るのに会ふ筈です。それからいきなり誰の神経にも顧慮せずに猛然と喋りだすのを見出すでせう。この男の奇妙なのは非常に観念的であると思ふと、時々非常に実行家なんです。この男が行動にうつる一瞬間前まで、我々は彼が起すであらう行動に就いて絶対に予測することの不可能なのが普通なのです。彼は年中何もしてゐません。時々ふいに何事か已に行つてしまつてゐるだけなんです。そして要するに年中同じ一室にヂッと棲息しつづけてゐるに過ぎないやうなものです。その男をこれから訪ねてみませんか?」
不賛成を説へる者は一人もなかつた。一同自分の体臭に疲れきつた感じであつた。要するに、ただ新鮮な人数が加はれば加はるだけ救はれるやうな思ひのみが共通してゐた。一団は二九太の部屋を目指して流れていつた。
薄暗い乱雑な部屋の中に、果して精悍な山犬の眼を光らせた哲学者がゐた。我々がほかの場所では見出すことのできないやうな、シャツのやうにひきしまつた黒い背広を着てゐるために、この男の痩せた身体が線で描かれた形のやうに不気味に見えた。金属のやうな冷めたい感じや傲然たる無神経や燃える眼が、檻へ入れて対坐するにふさはしい狂人のものに見えるのだ。凡そ部屋に不似合な巨大な汚い古ピアノが一台あつた。
「こんなものを買つたのか?」と長平がたづねた。
「こいつを一台買ふためには色々の欲望を断念したり大切な品物を売払はねばならなかつた。君はショパンがマヂョルカ島で作つたといふ幾つかのプレリュードやスケルツォを知つてゐるか? ショパンはジョルヂュ・サンドと一緒にマジョルカ島へ行つたのだ。あの牝牛には二十世紀の俺だつたら生理的な嫌悪を感じてやまないが、あの牝牛にひきづられ、旺盛な肉体力やら現実的な才智やらに圧倒されたショパンときては、女王の前の奴隷のやうにだらしがなかつた。マジョルカ島へ来た頃はショパンとサンドの恋愛も終曲に近い時なんだよ。ジョルヂュ・サンドが男と町へでかけたつきり夜が更けても帰つてこない、そこでショパンが絶望して、ねもやらず作つたといふのがそれらの曲だ。絢爛なほかの曲に比べると墓地できく雨だれのやうな陰鬱なものだ。音楽ぢやないのだ。つまり芸術ぢやないのだ。さうかといつてベエトオベンのクロイツェルソナタのやうな肉体や血のひしめいた懊悩を感じさせるものとも違ふ。いはば単に魂魄とか霊魂とでもいふものがどん底へ押し込められて、光もとどかない暗闇の奥で呻きだした。そんなものを感じさせるだけなんだよ。その曲を聴いたらピアノが欲しくなつたのだ」
「それを弾いてきかせないか」と長平が言つた。
「弾けないのだ。もともとピアノが弾けないのだよ。そのうちに習ひはじめるつもりだが、その曲を自分で弾きたい欲望もないのだ。きいてくれ。俺は近頃酒をのむのだ。一回に四合瓶一本づつ。毎日なんだ。夜が更ける、二時三時、すると俺は四合瓶をとりだして静かにゆつくり飲みだすのだ。決して人とは飲みたくない。この部屋の外でも飲みたくないのだ。この古ぼけた変哲もない俺の部屋が生き生きと蘇み返つてくるぢやないか。この部屋の中へ閉ぢこもつて為すこともなく失つてきた多くの時間が、然し決して無駄ではなく、それらがみんな蘇生して現実の俺の位置まで脈々と流れこんでくるのが分るのだ。不思議な魔力だよ。それ自体純粋だ。さうして、疑ふべくもない一つの現実だ。見給へ」
南雲二九太は立ち上つて一座を見渡しながら押入れの戸をサッとあけた。驚くべき光景。押入れの上も下もギッシリと四合瓶の乱雑な行列であつた。押入れの前に位置を占めてゐた私は思はず片手を差延して一本の空瓶を執りあげやうとした。二九太は急いで私を制した。
「待つたり。溲瓶の用に使つた奴があるから」
彼は机の抽斗から香水の瓶をとりだして、異常に綿密な注意を払ひながら一小滴づつ床へ落した。婦人達はこらへきれずふきだした。
「君に会つたら話さうと思つてゐたことがあるのだ」と、長平は相変らずの沈んだ声で二九太に話しかけた。
「僕の下宿から四五軒隣りの煙草屋の娘だがね。十五なんだよ。三ヶ月ほど前までは普通と変らない娘で、僕も見覚えがあつたが、相当悧巧さうな顔立もととのつた娘だつたよ。それがね、或日発作を起してブッ倒れたと思ふと、それからは予言するやうになつたり、千里眼の現象が現れたり、夢遊病の症候が現れたりしたのだね、顔立や肢体にも急激な変化が起つたといふことだよ。霊媒の話だとか、田舎へ行くと神がかりの女の話はよくきくことで、高大業とかおきみ婆さんお直婆さんといふ類ひの特殊な婦人の異常能力に就いてはかねてきき覚えてゐたが、
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