を是認しつづけてゐたのであつた。もとより私は彼女を一枚の紙屑のやうに捨て去ることによつて、決して一文の損も受けない立場にあつた。法律上の制裁を受けやう理由もなく、恐らく新聞種になることすら有り得やうとは思はれなかつた。三千代はかねがね私に向つて言ふのであつたが、私の本心が彼女を厭ふやうになつたら憐憫の念をすて生殺しの殺生をせずに一思ひに有りのままを打ち開けてくれと。(愛すふりをしてくれといふさつきの言葉と逆であるが、激した感傷の表現にはその時々の独立した真実性もあるべきである)その宣告は何物よりも怖ろしく悲しいことは無論であるが、その日までの幸福に感謝する思ひはあつても、決して私を恨むことはないだらうといふのであつた。斯様な表現には通俗小説や映画的な多分に偽られ又無批判な陶酔気味が見受けられるが、それが彼女の行動の幾分を実際に規定する尺度となつてゐる今日、あへて私が彼女のために私流の批判を加へる必要はないのだ。私はたしかに或る程度の彼女なりに本気なものをそこに読まずにゐられなかつた。要するに外部的なあらゆる条件に於て、私は三千代を捨てることに一分の束縛も受けてはゐない。(のみならず、束縛、制裁、損失!――もとより稚気満々たる英雄気取りの気負も多分にあることをひと先づ一応は認めるにしても、私は損失や制裁を世間の常識が怖れてゐるほど怖れてはゐない)三千代を捨てる全ての力があげて私の自由意志によるものであり、私は自らの憫憐の情を必ずしも不当のものとはしてゐなかつた。
 私は二人の訪客をアトリヱに残して一夜遊里を彷徨し、翌日の正午すぎて帰宅したが、その日私の胸に受けた一つの必ずしも大きくはない心の動きを決して見逃してはならないのだ。三千代に対する態度の是認がかなり根柢からぐらつきだしてきたのであつた。
 話は至極簡単であつた。私が帰宅すると、出迎えた妹がへきなり私に言つたものだ。昨夜|晩《おそ》く秋子が私を訪れてきた、と。別にことづけはなかつた、と。挨拶のほかに殆んど言葉を残さずに、如何なる心も読むことのできぬ平静な然し失はれた表情をして帰つて行つた、と。
 私の心は忽ち顛倒する混乱の中へ投げ入れられた。混乱、自失、耳鳴、無言、無表情、化石の暫時の時間の後、私は書斎へはいり、この状態を沈めるために異常な長い放心を持続しなければならなかつた。
 なんのために来たのだらう……と
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