一人は四十前後の男、その連れは三十七八の女で、見るからに北国の暗い風土を彷彿たらしめてゐた。男は冗長な田舎言葉で、越後亀田在の栃倉重吉と名乗り、連れは妹の八重であると名乗りをあげた。
「旦那に一目会ひたいですが」
 と、男の浅黒い顔に突然赤味がさしたかと思はれた表情の変化のうちに、どうやら突きつめた何かを見せて私に言つた。
「父! 父はゐない」
「さうでない」栃倉重吉は焦燥に身悶えるかに気色ばんだ。彼は妹を指しながらまるで咒文《じゆもん》を呟くやうに早口に言ひだした。「旦那に会はねばこれが死んでしまふかもしれないのです。三日といふもの旦那を探してゐたのです。芹沢さんが教へてくれないのです」
「父は五泉にゐないのですか?」
「十日も前に東京へ来てゐるのに! 立つ晩に八重に別れも言ひに来たし、停車場へ送りもしたのだ。家は空家も同然、機場はガランとして一台の機もなし、人が寝るに一枚の夜具もあるかどうか棲める場所ではなし、旦那は夜逃げしたのです。その汽車賃も八重がなけなしの財布をはたいてつくつたものです」
 まてよ――と私はここで頭がカラになつた。私の眼に焼きついたのは彼等の異常な疲労であつた。その疲労から私は彼等の空腹をはつきり認めることができたのである。
 その一日私の心は時々秋子が気懸りであつた。その姿は中枢神経にギックリひびく恐怖の一種で有りやうは恋情のたぐひであらうか? 然し激越なものではなかつた。チラと現れ淡く消え去る微細な心の波動であつたが、その発作がすぎたあとでは三千代のことが、恰も忘れた遠い故郷を思ふがやうに、暮れやうとする海洋のむなしい広さで心に流れてくるのであつた。さうして私の心では、喜びや休息の一片の予期すらなく、ただ暮れかかる海洋にまぢらうとする切ない放心にとりまかれながら、三千代を訪れる決意を反芻しつづけてゐたのだ。
 私は三千代のことをぼんやりと思ひめぐらしてゐる自分に気付き、ふど我に返つて慌てながら訪客に言つた。
「だうぞ、まあおあがり下さい。一緒に夕飯でも食ひませう。親父はどこをうろついてゐるのだらう? あいつときたら年中自分のほんとの姿と大違ひの自分の姿を考へてゐるのですよ。ふだんは何もやれもしないが、愈々せつぱつまると三原山へ飛びこむ奴の無茶さかげんと同んなじ意気で、年中考へてゐた嘘の自分を実行しはじめる。結局我々の中途半端な生活ではそ
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