笑ひは秋子が発したものではなく、あぐりの声であることが分つたとき、私の最大の憎しみがあぐりに向けて閃いたことも忘れられない。その笑ひをきつかけにして、秋子は一直線にアトリヱの中央を横切ると、私のうしろから応接室へ這入つてきた。芹沢東洋は一番おくれて現れた。彼はむしろ茫然とした様子だつた。なぜといつて、秋子にこんな隠れた男のあることを知らないために、始めのうちは何のことやら皆目事情を呑み込むことができなかつたであらうから。
「あたしに恥をかかすなら、一思ひに殺しなさい!」と、低い声だが力一杯の怒気を含めて秋子は言ひ放つた。泪《なみだ》のこみあげる気配が肩にも背にも表れてゐた。
「人前で恥をかくぐらゐなら、あたしは死ぬ方がましです!」と、秋子は泪をおさへながら怒りにふるへて言ひつづけた。
 私はむしろ茫然とした。こんな時、女は一途にこんな考へを持ち、こんなことを言ふものだらうか? 私は先づかやうな疑問に打たれたことを打ち開けやう。根本的に男と違ふ生物を私は始めて見出したやうに吃驚《びつくり》した。秋子に惹かれる一つの理由が分つたやうな思ひもした。一つの美と一つの尊厳を感じたことも事実であるが、その反動に、秋子の怒りが悲しみが直ちに私の心となつて言ひやうもなく遥かな奥に切々と悲痛なうねりが流れたことも否定はできない。
「なんの用できたのです! このうへあたしに恥をかかすつもりなら、あたしを殺してからにして下さい!」と秋子は殆んどききとれぬ声で叱咤した。
「家内は姙娠五ヶ月で、ちよつとヒステリイ気味のやうですな」と峠は秋子にとりあはずに、煙草をゆつくり点け終つて叔父に言つた。
「秋子は僕の家内です。勿論御存じのことでしたね。いや、僕はこのうへ何も言ひたくありませんな。言ふ必要はないでせう。言ふべきことがありますかな。秋子は僕の家内です。それで、さて、それから何か言ふ必要がありましたかな?」
「君はいくら欲しいのですか?」と芹沢東洋は思ひきつた顔付で言つた。
「けだもの!」秋子は殆んど掠れた響きで呟いた。
「五千円。それくらゐのところでどうでせう? 僕は北支那方面に野心と抱負があるのですよ」
 斯様な愚劣な情景に多くの頁を費すことを私は止めやう。私の目配せがなかつたら、たとひ値切りはしたところで叔父は若干の金銭を即座に渡しかねないところであつた。万事私が今後の相談にあづかる約
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