_経病患者を亢奮状態に落とすには酒を用ひるのが最もいいのだ。彼等がアルコールの飲用によつても亢奮した場合には、一般に最も強度の被暗示性におちこむものだよ。たとへば水に触れしめて、これに火といふ暗示を与へただけで、火傷せしめることができるほど猛烈なものだ」
二九太は四合瓶をさげ、酒店の主人から借り受けた盃を握つて店をでたが、急に立ち止つて呟いた。
「盃でチビ/\飲ませるのは容易ぢやないな。コップで飲ます必要があるな」
すると彼は盃を返すかはりに突然鋪道へ叩きつけて粉微塵にくだいてゐた。それから荒々しく店内へ駈けこみ「僕の必要なのはコップの方だつた」と叫んでゐたが、酒店の主人が苦笑しながら差出すコップを攫ひとつて私達の方へ大股に戻つてきた。
目的の家へ着くと、日本心霊学協会会員証を握りしめた長平が五名の者を待たしておいて交渉のために這入つていつたが、間もなく現れて万事都合よく運んだむねを報告した。私達は煙草屋の二階の一室へ通された。娘は階下の茶の間にゐたやうであつた。約十数分の後神経病少女はその母親にともなはれて私達の面前に現れたが、この会見は僅々数分をもつて有耶無耶《うやむや》の終末を告げ、私達の最も期待した二九太の実験はつひにその実現をみなかつたばかりか、少女の予覚的恋愛の興味津々たる的中の一幕もなく、夢想だにせぬ陰鬱な結果を生みだすこととなつたのである。
私達の面前へ現れた少女はその訝しげな視線によつて先づ我々を交互に焼けつくやうに凝視め続けた。その眼は次第に大胆不敵な光りを加へ、その視線が私の顔に向けられた時には、恰も眼光が次第に膠着するもののやうな執拗な厚みを感じたほどであつた。少女は全く無言であつた。突然二九太は少女の前へ進んでいつた。コップに酒をつぎそれを突きだしながら激しい視線で少女を凝視めた。
「これをのんでごらん! 頭をよくする薬だよ。君はこれを呑まなければいけない!」
恐らく二九太は自分に具はる暗示性を恃《たの》み、少女に具はる被暗示性を予想したうへ、暗示によつて飲酒を強制しうるものと信じたらしいのであつた。彼の暗示は然し全く効果がなかつた。少女の瞳は益々大胆な光をたくはえ、二九太の眼を微動だにせず凝視めるばかりで、返答の気配もなかつた。
二九太は突然コップの酒をただ一息に自分自身で呑みほした。コップに再びつぎなほして、改めて少女の瞳
前へ
次へ
全63ページ中60ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング