をふせてゐるやうにすら思はれたのだつた。私は暫く沈黙して私の疑念を虚しく追ひまはしてゐたが、思ひきつて顔をあげた。
「貴女の言葉は僕にまるで秋子さんの支配権があるかのやうに聞えます。言葉を換えて、もつと僕自身の肚の底を打ち割つた言ひ方をすれば、僕の愛情がもはや疑ふ余地すらないほど明確に秋子さんに向けられてゐるものに語られてゐるやうです。そのことを僕が疑らずにゐていいのでせうか? 貴女は何か御存知のやうですね。然し僕は全く知らないのです。分らないのです。これは皮肉ぢやありませんよ。他人の方が僕の心をずつと余計知つてたつて不思議なことはないのですから。自分が自分に向つてするあくどい偽りほど割りきれない奴はありませんよ。僕は弱つてゐるのです」
「だつて貴方は秋子さんを愛してらつしやるんでせう?」
「さういふ貴女の聡明な言ひ方が僕には困るんですよ。人情の機微を知りつくした媒妁人のやうに仰有《おつしや》られては困るのです。僕が秋子さんを愛してゐるといふことは一応ほんとかも知れません。その一応の真実から世間並みの結婚と幸福が算出されるかも知れません。然しさういふ常識が愛に解決を与へる筈はありません。もと/\僕は世間並みの幸福には徹底的に魅力を感じてゐないのです。これは強がりではありません。僕は断言できるのです。僕はワイフのカツレツが特に清潔だとすら思はないのです。一応の聡明さで、ワイフのカツレツが清潔だといふ中途半端な誤魔化し方をしただけでも芥川龍之介の錯乱を認めることができないのです。秋子さんの愛に就いて僕には全く自信がありません。余計なことかも知れませんが、あの人のほかに、僕には現に二人の情婦があるのです」
木曾野は真剣な顔付をしたが、そのどこやらに然し親しさが流れてゐた。
「いいぢやありませんか、そんなこと。秋子さんの今後の生活に責任を持つていただきたいなんて、あたし望んでもゐませんし、その心算でお話きいていただいたわけでもありませんわ。秋子さんがよしんば百人の情婦の中の一人だつて、それでいいぢやありませんか。とにかく静浦の別荘へ秋子さんをお預りすることだけは承諾してくださるんでせうね? これは現在の話ですわ。未来のことなんて考へてみたくもありませんもの」
「さういふ意味でしたら勿論不賛成を説《とな》へる筋はないわけです。然し、ちよつと、待つてください……」
私は何事
前へ
次へ
全63ページ中51ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング