はんですよ。
そこまではまだ良かつた。すこし離れたところに折葉さんが父の日記を執りあげて読んでゐました。そこで太郎丸氏の着想は急角度に転進して、氏自ら忽然古代史の奥底に没入し去つてしまつた。
私は生きてゐるのが面倒くさくなるのですよ。死んでから、人間がどうなるか、あなたは知つてゐますか、私は知らんです。妹(折葉さんのこと)にきゝましたら、多分眠つてゐるときと同じだらうと言ふのですが、私は眠ることもあんまり好きではないです。私は熟睡できないです。その代り、一日に十六時間ぐらゐ寝床にゐます。本を読んだり寝たふりをしてゐます。私は死なうと思つたことがありました。そのとき妹に相談して一緒に死なうと思つたです。けれども、妹に相談すれば、妹は必ず一緒に死ぬと答へるですから、私は慌たゞしいことになるでせう。多分私は妹にひかれて妹のあとからフラ/\と死ぬやうな立場になるですから、みじめだと思つたです。さう思ひながら妹の顔を見ましたが、眼は見ませんでしたが、鼻と唇を見たです。なぜなら、そのとき妹は横を向いてゐたからでした。妹の鼻の形は美しいですから。けれども整つた美しさですから、唇のみづ/\しさ妖しさに比べれば、永く注意を惹かなかつたです。私は唇をみつめてゐました。あなたはこの世に無限の物を見たことがありますか。私は法隆寺を見物しました。千年の昔からつゞき、そして之から何千年つゞくか知れませんが、私は然し心を動かされませんでした。あれは無限ではないです。夢殿の観音も見ましたが、私はグロテスクだと思つたゞけです。私は妹の唇を見てゐるうちに心をうたれて、無限だと思つたのです。私は妹と一緒に死ぬのはいけないことだと思ひました。私は泣いたです。一日中、寝たふりをして泣いてゐたです。泣くわけが分らなかつたですが、涙が流れていつまでも涸れないので奇妙でした。一日一晩泣きあかしたです。そして死ぬのをやめました。けれども、その後も、今も、生きてゐるのが面倒です。私は今でも時々妹の唇をぬすみ見しますが、見るたびに、段々と別のことを思ふやうになつたです。もはや無限ではないのです。私には手のとゞかない秘密があるのだと思つたです。妹は美しすぎます。私は妹を見てゐると、十里四方もつゞく満開の桜の森林があつて、そのまんなかに私だけたつた一人置きすてられてしまつたやうな寂しさを感じます。私は花びらに埋もれ、花
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