ていただいた。先生はオダテの名人です。私の感激致したのは申すまでもありません。
そのとき先生から明治大正政界の裏面史に就て一通り講説を受けて、尚又諸方への紹介状、総理大臣、総裁、大臣前大臣という方々ですが、ですから私は大変多くの大人物にお目にかかった。天下名題の大人物のことですから各※[#二の字点、1−2−22]一風変って威風は一々肺肝に銘じていますが、この訪問記は割愛致します。
かくて最後に加茂五郎兵衛の故山の家に赴いて、ここで資料を整理し、気が向いたらそこで執筆もよろしかろう、こういう話で、私が加茂村を訪れたのは昭和×年、私は二十九です。
筆力非凡将来の大器という先生の宣伝が行き渡っておりますから、山間の小村では現在の大器の如く丁重に待遇せられる、都会の陋巷でその日の衣食に窮していた三文文士が突然仙境に踏み迷ったわけです。
加茂家の当主は太郎丸という変った名前で、やがて五十に手のとどく年配でしたが、当主に限らずいったいが加茂家の人々は全く一風変っていました。
始めて加茂家を訪れたとき、現れたのは静江夫人で、よくこそサアサアと招じ入れて、之が大変なお喋りです。十年の知己と未知の人に区別のないのは結構ですが、人によって話題の選択を考慮致しませんから、知らない土地、知らない人の名が続出で、私は雲中に坐して雲雀の声をきく如く黙しております。近頃の東京はいかがでございますかと訊くによって答弁を発しようとするうちに、私共が東京におりましたころ、と忽ち思い出は十年前二十年前三十年前と際限もなく彷徨とどまるところを知りません。
そのとき一人の男が一束の薪木を担いで裏口から這入ってきて、ドサリと土間へ投落すと、次に鉈をふるって薪木を切りはじめました。田舎の家は入口からズッと奥まで土間が通っていて、旧家になると、この土間でキャッチボールができるぐらい広々としている。土間の片側は寄りつきの間、茶の間、仏間などで、片側は台所、湯殿などですが、この家では土間を利用した洋風の応接間があり横綱でも余るぐらいの大きな椅子が置いてある。私たちは茶の間にいた。男は土間の中央に薪木を投げだして鉈をふるいはじめたのですが、薪木を切断するという豪快な作業ではなく、片腕の上下運動によって間断なく薪木を叩くというキツツキのような作業でした。
すると夫人は男に向って、昨日は大きな丸太を割りもせず
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