だ。けれども一般に人々はかう考へる。古い習慣や道徳を疑ぐることは自分の方が間違つてゐるのだ、と。そして古い習慣や道徳に自我の欲望を屈服させ同化させることを「大人らしい」やり方と考へ、さういふ諦めの中の静かさが本当の人間の最後の慰めであり真善美を兼ね具へたものだといふ風に考へるのだ。
 私は不幸にして、さういふ考へ方のできない生れつきであつた。私は結婚もしないうちから、家庭だの女房の暗さに絶望し、娼婦(マノンのやうな)の魅力を考へ、なぜそれが悪徳なのか疑ぐらねばならないやうなたちだつた。その考へはいはゆる老成することなしに、益々馬鹿げた風に秩序をはみだす方へ傾いて行くばかりであつた。だが、私には分らない。今もつて何も分らないのだ。
 プレヴォによつて発見されたこの近代型の娼婦はその後今日に至るまで多くの作家の作品の中に生育発展し、ユロ男爵の如くそれに向つて特攻隊的自爆を遂げる勇士も現れ、その反動の淑徳も亦自ら新に考察せられてきた。尤もドストエフスキーの如く凡そあらゆる背徳に就て饒舌すぎる観念を弄しながら「気質的」にかゝる娼婦に多くふれ得ない作家もあり、彼の娼婦は概ね日本一般の常識の如く、
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