きなかつたからである。素子はショパンが好きであつた。その陶酔と恍惚から谷村も遁《のが》れることはできない。谷村は抱擁に就いて考へる。抱擁の素子は音楽の助力を必要としない。然し、抱擁なき時間にも、抱擁に代る音楽を――谷村は音楽にきゝほれる素子の肉体を嫉妬した。そして、そのたび彼は音楽を蔑んだ。音楽は芸術には似てゐない。たゞ、香水に似てゐる、と。
 信子のからだから、先づ香水の刺戟が彼を捉へた。ちやうど、ガダルカナルの退却のころだつた。人々は不吉な予感を覚えても、二年の後に東京が廃墟にならうとは夢に思ふ者もない。然し街から最も際立つて失はれたのは先づ香料のかをりであつた。コーヒーの香すらも。バタや肉の焼かれる香すらも。
 香水の刺戟は彼をまごつかせた。
「信ちやんのやうな人でも香水などがつけてみたいの? 生地の魅力に自信がもてないのかしら」
「あなたはいつもだしぬけに意地のわるい今日はを仰有るのね。ふと私をからかつてやりたくなつたのでせう。今朝、目のさめたとたんに」
 谷村の落着きは冴えてゐた。炭の赤々と燃えてゐる大きな支那火鉢の模様も、飾り棚の花瓶の模様も、本箱の本の名も歴々《ありあり》
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