は思つた。
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それは冬の日であつた。冬の訪れとともに谷村の外出の足がとまるのはすでに数年の習慣だつた。素子は彼の外出を訝つたが、それに答へて、本を探しに、と言つたのである。まつたく何年ぶりで冬の外気にふれたのだらう。鋭い北風に吹きさらされてみると、むしろ爽快と、何年ぶりかの健康を感じたやうな思ひがした。彼は襟巻で鼻と口を掩うてゐたが、それを外して吹きつける風にさらされてみたい誘惑すらも覚えたほどだ。
信子に恋がしてみたいとは、だまされたいといふことだらうかと谷村は思つた。忘れてゐた冬の外気が意外に新鮮な健康すらも感じさせてくれる。それも彼にはだまされた喜びの一つであつた。知らなかつた意外なもの、それに打たれて、迷ひたい。殺されてしまひたい、と彼は思つた。長らく忘れ果てゝゐた力が呼びもどされてくるやうだつた。それは外気の鋭さと爽快に調和してゐるやうだつた。
信子の居間には、このやうな女の居間にしては一つだけ足りないものがあつた。ピアノである。谷村は音楽を好まなかつた。音楽は肉慾的だからであり、音楽の強ひる恍惚や陶酔を上品に偽装せられた劣情としか見ることがで
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