ものであつた。
 それから起つた事柄は、彼にはすべて夢中であつた。曾《かつ》て彼の経験せざることのみだつた。二人は部屋いつぱいにころげまはつた。あらゆることが、不自然でなかつた。そして彼は信子を下に見る時よりも、信子を上に見るときに、逆上的に惑乱した。なぜなら、そのときの信子の顔はあらゆる顔に似てゐなかつた。信子は陶酔しなかつた。たゞ、興奮した。その顔色は茶色であつた。それにやゝ赤みがさしてゐた。頬はふくらみ、目は燃えてゐた。その目は、とぢることがなかつた。
 二人は一つであつた。壁にぶつかり、又、もどつた。火鉢にすらも、ぶつかつた。谷村の上に、信子の倒れてゐる時があつた。二人は十の字に重りあつて、倒れてゐた。二人は疲れきつてゐた。谷村はやうやく呼吸を意識するのが全部であつた。然し又信子は緩慢に起き直り、谷村の首に腕をまいてくるのであつた。すると又、新たな力がわいてゐた。谷村はわが肉体のつきざる力に感動した。信子の疲れて倒れるときは、いつも谷村の身体の上に十の字に重りあつて、のめつてゐた。谷村は物を思ふことがなかつた。信子を見つめることだけが、すべてゞあつた。
 おのづから二人の離れる
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