さねばならなかつた。彼は信子を抱きかゝへたまゝ、自分を下に一廻転して倒れなければ、仰向けに直すことができなかつた。信子のからだをずり落して、その重さから脱けでることができたとき、彼は疲れの苦しさよりも愛欲の苦しさに惑乱した。信子の顔には怪我はなかつた。
 信子はかすかに目をあけた。谷村は自ら意志するよりも、よほど臆病な遅鈍さで、信子に接吻した。彼はむしろ、その意慾の激しさのために、空虚であつた。信子はその接吻に答へ、目は苦悶にみちて、ひらかれた。両の拳がこめかみを放れて、大きく、高く、ゆるやかに、虚空をうごいた。大きく虚空をだくやうに、そして、ゆるやかに、両腕が谷村の痩せた背にまはつた。その腕に力はこもつてゐなかつた。背をまいて、然し、背にふれてゐなかつた。たゞ何本かの指先が、盲目の指先の意志でなされる如くに、谷村の背の両隅を、緩慢に、然し、かなりの力をこめて、押し、動いた。
 信子は突然泣きむせんでゐた。信子の全てのものが、一時に迸つてゐた。力のすべては腕にこもつて、谷村の胸をだきしめた。たゞ狂ほしく唇をもとめた。
 谷村は惑乱した。彼の腕は信子の首をだきしめるために自ら意志する生き
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