つても」
 谷村はうなづいた。
 信子の顔は燃えた。油のやうな目であつた。
「私だつて、誰よりもあなたが好きだつたのよ」
 谷村は、すくんだ。
「私は、今日は、変よ。だつて、あなたが、あんまりですもの。あなたが、意地わるだから」
 信子の唇が訴へた。にはかに顔色が蒼ざめた。まるで肢体が苦悶によつて、よぢれるやうに感じられた。
「あなたは、ひどい方。私を苦しめて」
 信子は両手を握りしめて、こめかみのあたりを抑へた。
「私を、こんなに、こんなに、苦しめて」
 唇がふるへた。目がとぢた。身体は直立して、ゆれた。それは倒れる寸前であつた。谷村が抱きとめたとき、信子はこめかみを拳《こぶし》で抑へたまゝ、胸の真上へくづれた。
 谷村は支へる力がなかつた。反射的な全身の努力によつて、自分が尻もちをつき、信子が胸からずり落ちるのに、嘘のやうに緩慢な時間があり得たことを意識した。それにも拘らず、ずり落ちた信子はかなりの激しさで床の上に俯伏《うつぶ》してゐた。両手の拳にこめかみを抑へたまゝの姿であつた。
 谷村は意志のない身体の重さに困惑した。信子をだきかゝへて、仰向けに寝せるために、その全力をだしつく
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