た。緑茶の茶碗は谷村のものが一つだけ、信子のものはなかつた。女中が去り、湯がたぎる頃になつて、信子はやうやく現はれた。信子は谷村に緑茶をすゝめた。
「信ちやんはなぜ飲まないの」
「私は欲しくないのですもの」
「理由は簡単明瞭か。いつでもかい?」
 信子は笑つた。
「いつでも喉のかわかない人がある?」
「もし有るとすれば、信ちやんだらうと思つたのさ」
「このお部屋ではどなたにもお茶を差上げたことがなかつたのよ。私もこのお部屋では、真夏にアイスウォーターを飲むことがあるだけ」
「なぜ僕にだけお茶を飲ましてくれるの」
「あなたはお喋りすぎるから」
 信子は林檎をよりわけて、ナイフを握りかけたが、林檎をむきませうか? お蜜柑? 谷村はしばらく返事をしなかつた。彼は食欲がなかつたから。そして、信子を眺めてゐるのが楽しかつたからである。
「僕は食欲がないよ。かりに食欲があつたにしても」
 谷村は笑ひだした。
「信ちやんを口説くかたはらに、蜜柑の皮だの、林檎の皮だの、つみ重ねておくわけにはいかないだらうさ」
 信子も笑ひながら、谷村を見つめた。笑ひながらであるけれども、その目は笑つてゐない。ぱつちり
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