の、凡そいかなるかすかなぎごちない気配をも窺ふ余地がなかつた。いつかうつとりと、又、漠然と、放心しきつてゐるのみである。いつか起るかも知れぬ素子の破綻に就いて谷村が不安をいだく必要もなかつた。
 なぜ今まで口説かなかつたの。いつでも遊んであげたのに。さういふ意味があるやうな気がする。然し、さういふ形はどこにもなかつた。たゞ、すこしも怖しくないだけだ。すべてが赦されてゐるやうだつた。

          ★

 谷村は落着いた気持になつた。今までも落着いてゐたつもりであつたが、まるで違つた落着きが入れかはつてゐるやうな気持であつた。あせりたい心、あせらねばならぬ思ひがなくなつてゐた。彼はたゞこの部屋の波にたゞよふ小舟のやうな思ひがした。やがてどこかの岸へつくだらう。南の島だか、北の涯だか。
 彼はもう、あくびをしてもよかつた。煙草をつけて、思ひきり、すひこんでみることもできた。
「信ちやんは自分の絵を覚えてゐるだらうか。僕は妙に忘れないね。あんまり平凡すぎるからだよ。色も形も、そして、作者の語つてゐる言葉もね。歪みといふものがないのだ。信ちやんは好んで二十ぐらゐの娘をかいたね。洋装だの
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