な顔でもあるし、うつとりしてゐるやうでもあつた。
 谷村の言葉がとぎれても、信子の様子は変らない。谷村は投げださう投げださうと努力した。つまり、何かを言ひきることによつて、自分を投げだしてしまひたいのだ。心に踏切りのやうなものがある筈だ。突然踏切り、踏みだしてゐるやうな一線が。彼はもどかしくなつてゐた。まだ踏切つてゐない。彼はたゞ信子の様子が意外であり、放心だか、うつとりだか、全くつかまへどころのない複雑な翳の綾が、さすがだと思つた。すくなくとも恋を告白しなければこの翳の綾は見ることができなかつた筈だ。すこし尖つた翳もある。やはらかい翳もある。幼さの翳もあつたが、さうでない翳、つまり、恋の老練を谷村はたしかに認めた。
 この女は恋に退屈しないのだ、と谷村は思つた。その考へは彼に力を与へた。
「僕は信ちやんに愛されたいといふことよりも、信ちやんを愛したいのだ。信ちやんが僕の絶対であるやうになりたいのだ。さうする力が信ちやんには有るやうな気がする。そして、信ちやんがさうしてくれることを熱願するのだ。信ちやんが死ねといへば死ぬことができるやうに、とことんまで迷ひたい。恋ひこがれたい。信ちやん
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