は思つた。

          ★

 それは冬の日であつた。冬の訪れとともに谷村の外出の足がとまるのはすでに数年の習慣だつた。素子は彼の外出を訝つたが、それに答へて、本を探しに、と言つたのである。まつたく何年ぶりで冬の外気にふれたのだらう。鋭い北風に吹きさらされてみると、むしろ爽快と、何年ぶりかの健康を感じたやうな思ひがした。彼は襟巻で鼻と口を掩うてゐたが、それを外して吹きつける風にさらされてみたい誘惑すらも覚えたほどだ。
 信子に恋がしてみたいとは、だまされたいといふことだらうかと谷村は思つた。忘れてゐた冬の外気が意外に新鮮な健康すらも感じさせてくれる。それも彼にはだまされた喜びの一つであつた。知らなかつた意外なもの、それに打たれて、迷ひたい。殺されてしまひたい、と彼は思つた。長らく忘れ果てゝゐた力が呼びもどされてくるやうだつた。それは外気の鋭さと爽快に調和してゐるやうだつた。
 信子の居間には、このやうな女の居間にしては一つだけ足りないものがあつた。ピアノである。谷村は音楽を好まなかつた。音楽は肉慾的だからであり、音楽の強ひる恍惚や陶酔を上品に偽装せられた劣情としか見ることができなかつたからである。素子はショパンが好きであつた。その陶酔と恍惚から谷村も遁《のが》れることはできない。谷村は抱擁に就いて考へる。抱擁の素子は音楽の助力を必要としない。然し、抱擁なき時間にも、抱擁に代る音楽を――谷村は音楽にきゝほれる素子の肉体を嫉妬した。そして、そのたび彼は音楽を蔑んだ。音楽は芸術には似てゐない。たゞ、香水に似てゐる、と。
 信子のからだから、先づ香水の刺戟が彼を捉へた。ちやうど、ガダルカナルの退却のころだつた。人々は不吉な予感を覚えても、二年の後に東京が廃墟にならうとは夢に思ふ者もない。然し街から最も際立つて失はれたのは先づ香料のかをりであつた。コーヒーの香すらも。バタや肉の焼かれる香すらも。
 香水の刺戟は彼をまごつかせた。
「信ちやんのやうな人でも香水などがつけてみたいの? 生地の魅力に自信がもてないのかしら」
「あなたはいつもだしぬけに意地のわるい今日はを仰有るのね。ふと私をからかつてやりたくなつたのでせう。今朝、目のさめたとたんに」
 谷村の落着きは冴えてゐた。炭の赤々と燃えてゐる大きな支那火鉢の模様も、飾り棚の花瓶の模様も、本箱の本の名も歴々《ありあり》
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