者だから。哲学や、宗教や、芸術の至りうる最後の果実に、信ちやんは生れながらに即してゐるのだ。信ちやんは自らみたされないことによつてしか、みたされることができない。信ちやんは現に僕をみたしてゐる。その不思議な美しさで。信ちやんは人を魅惑する微妙な機械だ。そして、魅惑によつて人をみたしてやるときだけ、自分もみたされてゐる。機械自体が廻転してゐることによつて」
信子の顔は再び笑ひだした。目は相変らずとぢられてゐた。然しまぶしげな笑ひとも違ふ。ものうげな笑ひでもない。複雑でもなく、深刻でもなかつた。たゞ笑ひといふだけのものだつた。信子といふ顔の上の。
突然再び自がひらかれた。すると同時に一つの言葉が語られてゐた。
「窓をあけて。私は、あつい」
あつい、といふ。音《シラブル》と、発音と、意味の、きはだつて孤立した三つのものゝ重なりの単純な効果のめざましさに、谷村は心を奪はれた。
★
窓をあけて戻つてくると、信子は女中をよび、何かを命じてゐた。そして寝室へ姿を消してしまつた。
緑茶が運ばれ、菓子が運ばれ、蜜柑と林檎が運ばれ、支那火鉢には炭がつがれて湯沸しがかけられた。緑茶の茶碗は谷村のものが一つだけ、信子のものはなかつた。女中が去り、湯がたぎる頃になつて、信子はやうやく現はれた。信子は谷村に緑茶をすゝめた。
「信ちやんはなぜ飲まないの」
「私は欲しくないのですもの」
「理由は簡単明瞭か。いつでもかい?」
信子は笑つた。
「いつでも喉のかわかない人がある?」
「もし有るとすれば、信ちやんだらうと思つたのさ」
「このお部屋ではどなたにもお茶を差上げたことがなかつたのよ。私もこのお部屋では、真夏にアイスウォーターを飲むことがあるだけ」
「なぜ僕にだけお茶を飲ましてくれるの」
「あなたはお喋りすぎるから」
信子は林檎をよりわけて、ナイフを握りかけたが、林檎をむきませうか? お蜜柑? 谷村はしばらく返事をしなかつた。彼は食欲がなかつたから。そして、信子を眺めてゐるのが楽しかつたからである。
「僕は食欲がないよ。かりに食欲があつたにしても」
谷村は笑ひだした。
「信ちやんを口説くかたはらに、蜜柑の皮だの、林檎の皮だの、つみ重ねておくわけにはいかないだらうさ」
信子も笑ひながら、谷村を見つめた。笑ひながらであるけれども、その目は笑つてゐない。ぱつちり
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