れることに堪へ得る人であり、人を愛す人ではない。そして僕は信ちやんを愛すことに堪へ得るだらう。僕は愛されないことを必ずしも意としない。むしろ僕は最も薄情な魂をだきしめてゐる切なさに酔ひたい。信ちやんの心は冷めたい水のやうだ。山のいたゞきの池のやうだ。湖面を風が吹いてゐる。山のいたゞきの風が、ね。そして空がうつるだけだ。たゞ空だけが、ね。孤独そのものゝ魂だ。そしてその池の姿の美しさ静かさで人を魅惑するだけだ。僕はその山のいたゞきへ登つて行く。弱いからだが、喘ぎながら、ね。ところが僕は奇妙に弱いからだまで爽快なんだ。その他へ身を投げて僕は死にたい」
 信子の顔はたうとう笑ひだした。まだ目はとぢてゐる。突然、ぱつちりと目をあけた。そして谷村を見つめた。
 然し、再び椅子にもたれて、放心してしまつた。たゞ違ふのは、ほゝゑみのかすかな翳が顔に映つてゐるだけ。

          ★

 不思議な目、それは星のやうだと谷村は思つた。ぱつちりと見開らかれ、見つめ、そして、とぢた。微塵も訴へる目ではない。物を言ふ目ではない。あらゆる意味がない。たゞぱつちりと、見つめる目であるだけ。たゞ冴えてゐた。それだけ。
 はじめて谷村も目をとぢた。自分の目が厭になつたからである。けれども、目をとぢることに堪へ得ない。信子の顔を失ふことに堪へ得なかつた。
「信ちやん。何かを答へてくれないか。目はとぢたまゝでいゝ。あんな風に僕を見つめるのは残酷といふものだよ。僕の告白に返事をくれる必要はない。たゞ、何か、言葉がきゝたいだけだ」
 信子は然し答へない。そして放心は変らない。笑ひの翳はいくらか揺れてゐるかも知れぬ。いつも何かゞ揺れてゐた。形には見えぬ翳のやうなものが。
 谷村は信子に甘えてゐる自分を見つめた。然し、不快ではなかつた。そして谷村は気がついた。信子を少女のやうに扱ふ気持が根こそぎ失はれてゐることに。益々勇気がわいてゐた。それはどのやうな愚行をも羞ぢない、如何なる転落も、死をも怖れぬといふ自覚であつた。
 谷村は信子の不思議に薄い唇を見つめてゐた。それは永遠に真実を語ることがない一つの微妙な機械のやうな宿命を感じさせた。信子の鼻は尖つてゐたが、その尖端に小さなまるみがあつた。そこには冷めたい秘密の水滴が凝り、結晶してゐるやうに思はれる。人はそこに冷酷、残忍、不誠実を読みとることも不可能では
前へ 次へ
全19ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング