、和服だの、そして、たぶん、裸体はなかつた筈だ。あんまり平凡で、常識的すぎるのだもの。然し、だん/\分つてきた。信ちやんの絵はお喋りではない。好奇心がないのだ。ところが外の連中は、たとへばうちの素子のやうな常識的な女でも、ごて/\とお喋りで、好奇心ばかりの絵をかくのだね。別段その絵に作者の夢が託されてゐるわけでもない。架空な色彩の遊びがあるだけなのさ。信ちやんにはその架空な遊びが必要ではないのだね。むしろそれが出来ないのだ。信ちやんは絵の中に好奇心を弄する必要がない。信ちやんは生活上に天性の芸術家だから」
谷村は和かだつた。顔には笑ひすら浮んでゐた。然し彼は信子の顔から注意の視線を放さなかつた。この放心の表情と、肩と胸と腕のゆるやかにだらけた曲線の静かさは素晴らしい。けれども、もつと素晴らしいことが起る筈だ。ある変化が。いつ又、いかにして。その瞬間を見逃すまいと彼は思ふ。然し、彼は猟犬ではなかつた。信子の破綻を全く予期してゐなかつたから。すでに彼は信子の技術を疑はなかつた。そして、その万能を信じたいと思つた。
谷村は遊びたくなつてきた。もつとふざけてみたくなつてきた。言ひたい放題に言つてやりたくなつてきた。それは信子に誘はれてゐるやうでもあつたし、誘はれやうとしてゐるやうでもあつた。
幼い頃、こんな遊びをしたことがあつたやうだと谷村は思ふ。柿の木に登つて、柿の実をとつてやる。下に女の子が指してゐる。もつと上よ、えゝ、それもよ、その又上に、ほら。そして、枝が折れ、地へ落ちて、足の骨を折つてしまふ。それは谷村ではなかつた。隣家の年上の少年だつた。生きてをれば、今も松葉杖にすがつてゐる筈なのである。
この部屋には退屈と諦めがない。それは谷村の覚悟であつた。上へ、上へ、柿の実をもぎに登るのだ。落ちることを怖れずに。落ちるまで。
谷村はこのまゝ、こんな風にして、眠ることができたらと思つた。そして、そのまゝ、その眠りの永久にさめることがなかつたら、と思つた。
「今、僕に分るのは、この部屋の静けさだけだ。世の中の物音は何一つきくことができない」
と、谷村は譫言《うわごと》をつゞけた。
「火鉢の火が少しづつ灰になるものうさまで耳に沁みるやうな気がする。僕に自信が生れたのだ。それはね、信ちやんは如何なる愛にも堪へ得る人だといふことが分つたやうに思はれるから。信ちやんは愛さ
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