ことを忘れない。酔余素敵な女に会つた。忘れかね山を降りて会ひに行つたら印象とまるで違つた女の様子に這々《ほうほう》の態で逃げ出したことがあつた。
(二)[#「(二)」は縦中横]
八ヶ岳の中腹に本沢といふ温泉がある。海抜二一〇〇|米《メートル》ぐらゐの地点にあるらしい。大正十二年に出版された某登山家の著書によると、この温泉は春ひらいて秋とざす。一冬八十円の報酬で留守番を置き残し一同下山するが、春に訪れてみると大概番人は死んでゐる。首をくゝるもあり半身焼けただれてゐるもあり明らかに殺されてゐる者もあると言ふのであつた。然し八十円の報酬に目がくらんで、番人を希む者は絶えた例がないと言ふ。いまだにさうか私は知らない。
例の日本一といふ高原鉄道小海線が去年十一月開通した。八ヶ岳の麓千米ほどの高原を通るのである。私はこれに乗り、もし閉ぢられてゐないなら季節の終りの本沢温泉を訪ねてみやうと思つた。八十円に目のくらんだ番人がゐたら茶飲み話をしながら素朴な心境を探りたいとも考へてゐた。去年の十一月の終りのことだ。
出掛ける途中寄り道をした。中学からの友達で哲学をやつてゐた男が発狂
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