んやり一室に閉ぢこもつてゐるだけだが(私は旅にでてもいつもさうだ)すると牧野さんが時々庭球選手のやうな颯爽たる服装でやつてきて、おい昆虫採集に行かうと言ふ。牧野さんの昆虫採集も古いものだが未だに根気よく凝つてるらしい。あの頃は病膏肓の時だつた。私は一匹の揚羽蝶をつかまへただけで、昆虫の素ばしこさには手を焼いてゐるから、彼の活躍の後姿を眺めながら煙草をふかしてゐるのであつた。小田原の山は蜜柑等の灌木だけで高い樹木が全くないから陰がない。そして空が澄んでゐる。牧野さんの精神の抒情には靄といふものが殆どないのは彼を育てたこの風景のせゐだらうと私は考へてゐる。
 小田原の記憶といふとそれだけで、私は小田原の町を知らない。そのくせ毎晩小田原の町を彷徨してゐたのだ。酔ひ痴れてゐたのである。
 山の頂上に豪華なキャッフェがある。そこから見ると街の灯が谷底の中で輝いてゐてひどく綺麗だ。精神の高まるやうな気がする。その酒場で私は小田原の医者と知り合つて共に酒を飲んだ筈だ。この医者は三十を過ぎたばかりの婦人科医で、血を見ると酒を飲まずにゐられないと言ふのである。その人の顔は忘れたが音声だけは記憶してゐた。
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