裏切り
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)村社《むらこそ》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)クシャ/\
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 ぼくが阿久津に働いていたので、日野が出入りするようになりました。彼が元子爵の息子だというのは本当です。
 しかし奴めを斜陽族と云うのはとんでもないことで、彼が戦前ぼくと中学同級のとき、すでに裏長屋同然のところから通学しておりました。彼の父の子爵もそこに住んでいたのです。戦前から落ちぶれはてた世に稀な貧乏華族だったのです。
 ぼくらは彼を野ザラシとよんでいました。例の落語の野ザラシで、サレコーベに酒をぶッかけて家へ戻ると女のユーレイがお礼に現れたという話ですが、アダ名の意味はガイコツというのでしょうか。当時奴はガナガナやせきっていました。酒でもぶっかけると元華族になる、子爵のなれの果てというようなひどい意味であったかも知れません。まったく戦前からなれの果てでした。そんなわけで、なまじ子爵の子であるために劣等感ばかり味って育ったのです。
 戦災で奴めの裏長屋が焼け消えて、華族全部が消え失せたので、奴めもにわかに斜陽族に出世したわけで、それからの奴めの羽ぶり、にわかに斜陽族ぶったキザといったら、ぼくもウンザリするときがありました。
 もともとなれの果ての生活になれていますから斜陽族を利用してタダでメシを食う手に熟練していたばかりでなく、ホンモノの斜陽族に有りうべからざる限度の心得があって、何から何まで計算の上でやっていました。
 ぼくとの関係で阿久津へ出入りするようになったころは斜陽族もそう物を云わない時世になっていましたから、そこは心得たもので、たまに匂わす程度にしか斜陽族ぶりません。ライスカレーを二枚三枚お代りするにもモジモジしてとても上品に乞食ぶるのがあざやかでして、週に二度か三度ぐらい、それ以上は来ません。モジモジしながらいつもライスカレー三枚はペロリと平らげていました。
 阿久津のトオサンはいわゆる酸いも甘いも噛みわけた苦労人でお気に入りには毎日でもタダメシを食わせてくれる人ですが、バカではありませんから斜陽族の乞食演技にコロリといくはずはありませんが、トオサンがシンから日野を信用するに至ったのは村社《むらこそ》八千代の一件からでした。
 八千代サンはヒロポン中毒の可愛い女学生で、詩人です。日野とは同人雑誌の同志でした。新興成金の娘ですが小遣いも盗みだしたお金もみんなヒロポンにつぎこむらしく、年中文なしでピイピイ腹をすかしていましたから、日野がウチ(阿久津のことです。ぼくは板前見習い兼出前もちです)へつれてきて彼女にタダメシをゴチソウするようになったわけです。彼女の食いっぷりが日野に輪をかけてもの凄くアラレもないこと甚しいので、トオサンは一目みてひどく同情して、もっと食いねえ食いねえというわけ、それをまたガツガツとむさぼり食う、二人の友情がかたく結ばれたわけです。
 トオサンと八千代サンは心を許す親友になりましたが、こまったことに、八千代サンは、本当にトオサンに惚れてしまったのです。アラレもなくガツガツとタダメシを食う小娘ですから惚れッぷりも猛烈でした。ぼくが見ている前だというのに堂々とトオサンに向って自分の処女を自由にしてなどとただならぬ目ツキで口走るものですから、トオサンも狼狽して、
「あなたのような可愛い娘がかりにも私のような者にそんなことを云ってはいけないよ。私はもう五十五のオイボレだし、あなたはこれからという人生じゃないか。若いうちは戸惑うことがありがちで変テコなことを思いつくのはフシギではないかも知れないが、しかし、あんまり、ひどすぎるぜ。なア、八千代サン。あなた、ヒロポンやめなよ」
「ひどいわね。ヒロポン中毒あつかいして。思うことを云うのが病気でしょうか」
「ま、病気といえば、病気だな。タシナミというものがある。かりにもあなたのような娘が処女を自由にしてなんてことを云うのは自然にそなわる女のタシナミに反するものだぜ。私は小学校をでたばかりの無学者でむつかしいことは知らないが、ちょッと、ひどすぎると思うねえ」
「そうねえ。ひどすぎたかも知れないわ。私、愛情の表現を知らないのです。仕方がないから、手ッ取りばやく、処女を自由にしてなんて云ったんですけど、私だって肉体のことなんか考えていないわ。ただ本当に好きなんです。トオサンの目も手も口も心も、みんないとしくて、たまらないわ。毎日、まるで格闘しているような気持なんです。それを云いたかっただけなの」
「若い時には魔がさすことがあるものだ。気まぐれというわけでもなかろうが、ひょッと変テコな入道雲みたいのものがニジかなんかに見えやがってさ。若い男がおッ母さんのような女に変な気持になることがよくあるものだ。こいつにマトモに気を入れると一生のマチガイになる。一時の迷いなんだよ。な、若い者は若い者同士だ。当り前じゃないか。日野サンがだいぶあなたにあついようだが」
「あんな子供、きらいです」
「子供ッて、あなたも子供じゃないか」
「私が子供だから、あの人の子供ッぽいのがたまらなくイヤなのかも知れないわ。子供は子供同士ッて、どういう意味でしょう。似た者同士はイヤなものだわ。鼻につくんですもの。子供のくせに変にスレッカラシのところまで似てたら、やりきれないのは当然です。あの人のこと云いだしたの、なぜですか」
「まアさ。そう私をいじめないでおくれ。あなたの人生はこれからまだ五十年もあるのだから、一生を決する大事に一年や二年考えたって長すぎやしないんだ」
 トオサンは真剣に困りきっていたようですが、そのとき八千代サンが突然こう叫んだものです。
「トオサンは小夜子サンが好きなのね!」
 これにはぼくの方がびっくりしました。いったい、トオサンが小夜子サンが好きだということを、どこから嗅ぎつけたのでしょう。そんなことはトオサンの顔色にでたことはありませんし、現にこう八千代サンが叫んだときですらトオサンはなんとなくやや重々しく落着いてみせただけで眉の毛一筋だって動かしやしませんでした。けれどもトオサンが小夜子サンが好きだというのは事実なのです。毎日、朝から夜中まで一しょに働いて暮しているぼくにだけは判る理由があったのです。と申しますのは、実はぼくが小夜子サンにひそかに思いをかけておりますからで、同じ思いの人間が小夜子サンも交えて三人一しょに暮しておればそれはおのずと通じないはずはないものです。
 小夜子サンと申す人はここのお座敷女中です。三人いる女中のうちの一人で、とても美しい人でした。女子大中退という教養もかなりの人で、こんなところで働くのがフシギと申すほかない麗人でした。御座敷女中入用のハリ紙をみてこの人が訪ねてくれた時にはトオサンもぼくもびっくりしたもので、
「ハキダメへ鶴がおりるということは申しますが、こんなチッポケなうす汚い安料理屋へあなたのような人が働いたらおかしいや。よした方がいいですよ。よその立派な店がいくらだって雇ってくれますぜ」
 トオサンはむだなことを云わさないと云わんばかりにこう申したものですが、小夜子サンはここが気に入ったから働かせてくれと重ねて云うのです。
「ここのどこが気に入ったんです」
「あなたがそんなふうに仰有《おっしゃ》るからよ。私あんまりパッとしたところで働きたくないんです」
「あなたがパッとしすぎてるからさ。ここじゃア、しかし、どうも、ねえ。あなただけパッとしすぎて、ここの客が寄りつかなくなッちゃうよ」
 まったく見るからにパッとした存在でした。ミナリだって渋くて上等なものでした。一見して家柄を感じさせるような気品があって、それで目がさめるほど美しいのですから、パッとしすぎてここの客がよりつかなくなるというのも云いすぎではありません。この人がまた意地ッぱりで、とうとうここに働くことになったばかりでなく、まる二年ここに落着いてるんですから、まったく妙な話です。トオサンはカンバンになってイヤな客が小夜子サンを送って出そうな気配があると、ぼくに目配せして、
「小夜子サンを送ってあげな。ねえ、小夜子サン。今夜は龍ちゃんに送らせて下さい」
 こう云ったものです。万一のことがないようにと気をつかってのことです。イヤな客にはハッキリと、
「今夜は龍ちゃんが小夜子サンを送りますから、あなたはひきとって下さい」
 などとズケズケ云いました。そういうところは小気味のいいトオサンでしたが、自分の胸の思いをうちあけるには全然勇気がなかったのです。むろんトオサンには奥サンもあるし子供もありますが、小夜子サンにも御亭主があったのです。物理学者で、書斎の虫だったのです。仲は冷いようでした。
 八千代サンも可愛い娘でしたが、小夜子サンが万人その美を認めざるを得ないていの麗人ですから、自然ひそかに嫉妬せずにいられなかったのでしょう。
 その小夜子サンが二世のセラダと熱海で心中して、二人とも死に損いました。日野と八千代サンの一件というのもその時にあったことです。いまはその一件を語るのが目的ですから、小夜子サンとセラダのことはやがて章を改めて語ることに致します。
 小夜子サンとセラダが死に損ったということは新聞の夕刊に小さく出ていたので判りました。トオサンはとる物もとりあえずというていたらくでカッポウ着をかなぐりすてて熱海直行ということになりましたが、そのとき店に来合せていたのが日野と八千代サンでして、
「じゃア、ぼくも行きます」
「私も」
 この二人がどういう反射運動か、その気になって立上ったものですから、トオサンも考えてるヒマがありません。
「ウン」
 と答えて三人一しょに熱海めざしてまッしぐらです。しかし、もともと小夜子サンとセラダが死に損ったことについて日野と八千代サンまでが熱海へ駈けつける必要はないのですから、トオサンも熱海へ近づいたじぶんから弱りだして、
「お前さんたち、なんだってノコノコついてきたんだい」
「イヤだな、切符買ってくれたくせに」
「仕様がねえなア、来ることもないくせに」
「トオサンが慌てすぎるから、こッちもつりこまれちゃったらしいや」
 仕方がないから、トオサンは二人を適当な旅館へあずけて、自分だけ小夜子サンの病床へ駈けつけて一晩看病しました。日野と八千代サンの一件というのはつまりその晩の出来事です。
 トオサンにしてみれば、こんな偶然がもとで八千代サンが日野とネンゴロになってくれた方がむしろ自分を愛してくれるよりも八千代サンの身のためだぐらいの気持だったかも知れません。宿の番頭や女中に、
「この若い二人をたのむよ!」
 と云ったそうです。そんなわけで二人は一つブトンに枕二つ並べて寝かせられることになりました。
「弱ったなア。フトン二ツにしてもらおうかね」
「平気じゃないの。電車の一ツ座席へ二人一しょに坐って来たじゃないの」
「それとこれとはちょッとちがうと思うがなア。ま、いいや。キミさえ平気なら、ぼくだって、こだわらないよ」
 さて寝てみると、日野はくすぐったくて我慢ができません。八千代サンの平気じゃないのという言葉はどんなことをしたって平気じゃないかという意味のように理解せざるを得なくなりましたから、そッと手を動かして大胆に彼女のカラダにさわりましたところが、いきなり蹴とばされ、つづいて八千代サンはどッと向き直って力いっぱい日野のほッぺたを殴りつけたそうです。日野は慌ててフトンの中からとびだして洋服をきました。
「ヤだなア。キミは礼儀知らずだよ」
「礼儀知らずは、あなたよ」
「ウソだい。男が女の身体にさわりたがるのは人情じゃないか。イヤなら静かに云っとくれよ。よッぽどショッてなきゃア、そんなことできやしない。さもなきゃア、キミはよくよくガサツなんだ」
「あなたを男あつかいしてないからよ。犬か猫だと思ってるから。必ずぶち返してあげるから」
「フトン一枚かしてくれないかな」
「ここへ寝なさいな」
「そうはいかないよ。自然の情というものは人間にはあるんだから
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