ラダの車中にころがっていたピストルが彼のものかという質問をうけたことがありました。ピストルなぞはよく見たことがなかったのですが、それでも一見して違うように思われたのですが、面倒になるとうるさいので、ピストルなぞは一度も見たことがなかったのですと答えてごまかしてきたのでした。したがって彼の自殺説に甚しく反対だったのですが、彼の過去の犯罪がよほど米軍にとって重大らしいのを確認して、それではやっぱり自殺かなと思い直してしまったのです。
 この事件のカギを握るのは日野だけですが、彼は小夜子サンとはアベコベに、セラダの自殺説が確定した時に、たぶんそうだろうと思ったのです。
 お金が山とあっても死にたい時に人は死にます。ことにセラダは何かによって死の崖へ追いつめられていた様子ですから、あの人柄ではいつ何時プイと死んでも別に変哲もないことに思われただけのことでした。
 あのバカも死んだかと思いました。ギャングの金のつきるまでお酒をのませてもらえるタノシミが減ったのは遺恨でした。オレに残りの金をくれて死ねばよいのに、気のきかねえ野郎だとぼやいたのです。しかし小夜子サンに残してやった様子もないのでちょッと変だなと思いましたが、あのバカにはマゴコロからの惚れたハレたが皆目ないのは確かですから、むしろこれもサバサバして風流にかなうオモムキもあり、またこれでオレも小夜子サンにヤキモチやいて金銭の恨みを結び、時に悪夢にうなされる心配もなくて安心だと考えたりしたのです。
 しかし思えば思うほど残念でたまらないのは、オレにもいくらかくれねえかなアとノドから手と声が一しょに出かかったのが何度もあったにも拘らず、奴めの妙に純粋らしい超特級の友情の手前、それがどうしても云えなかった一事でした。彼は生れてはじめて友情を裏切らなかったのかも知れませんが、これには後々まで後悔に後悔を重ねたのです。



底本:「坂口安吾全集 15」筑摩書房
   1999(平成11)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第五一巻第九号」
   1954(昭和29)年9月1日発行
初出:「新潮 第五一巻第九号」
   1954(昭和29)年9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2006年9月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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