うらやましいよ」
「貧乏だったの」
「むろんだとも」
「お父さんは百姓だったの」
「漁師だったよ。お魚をザルにいれて私が町家の裏口から売って歩いたこともあるよ」
「寒いころ?」
「フシギに子供のころが思いだせない性分なんだな。停電の時やなにかに暗闇の中でふッと子供のころのことを思いだす時があるが、明るくなるともう忘れる。停電の時だけ昔にかえるというわけだ」
こういう旅行を七日七晩ほどつづけたのです。けれども、そのうち前三日はトオサンがカゼをひいてねこんでいましたし、後三日は小夜子サンがカゼをひいてねこみまして、要するにやむをえない七日七晩だったわけです。二人の看病は心がこもっていましたが、特別というほどではありません。要するに、特別のものはなかったのです。
二人だけ一しょに旅行するというのが、そもそも茶のみ友達の境地に反しているのかも知れません。それはいわゆる世間なみの愛人たちのやるべき通俗なことのようです。しかしトオサンはそんな反省にふけるよりも、自分のカゼと闘うことや小夜子サンのカゼと闘うことに必死でした。無我夢中と云っても過言ではなかったほどです。彼は自分の病気中は、わるい奴
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