てるヒマがありません。
「ウン」
 と答えて三人一しょに熱海めざしてまッしぐらです。しかし、もともと小夜子サンとセラダが死に損ったことについて日野と八千代サンまでが熱海へ駈けつける必要はないのですから、トオサンも熱海へ近づいたじぶんから弱りだして、
「お前さんたち、なんだってノコノコついてきたんだい」
「イヤだな、切符買ってくれたくせに」
「仕様がねえなア、来ることもないくせに」
「トオサンが慌てすぎるから、こッちもつりこまれちゃったらしいや」
 仕方がないから、トオサンは二人を適当な旅館へあずけて、自分だけ小夜子サンの病床へ駈けつけて一晩看病しました。日野と八千代サンの一件というのはつまりその晩の出来事です。
 トオサンにしてみれば、こんな偶然がもとで八千代サンが日野とネンゴロになってくれた方がむしろ自分を愛してくれるよりも八千代サンの身のためだぐらいの気持だったかも知れません。宿の番頭や女中に、
「この若い二人をたのむよ!」
 と云ったそうです。そんなわけで二人は一つブトンに枕二つ並べて寝かせられることになりました。
「弱ったなア。フトン二ツにしてもらおうかね」
「平気じゃないの。電車の一ツ座席へ二人一しょに坐って来たじゃないの」
「それとこれとはちょッとちがうと思うがなア。ま、いいや。キミさえ平気なら、ぼくだって、こだわらないよ」
 さて寝てみると、日野はくすぐったくて我慢ができません。八千代サンの平気じゃないのという言葉はどんなことをしたって平気じゃないかという意味のように理解せざるを得なくなりましたから、そッと手を動かして大胆に彼女のカラダにさわりましたところが、いきなり蹴とばされ、つづいて八千代サンはどッと向き直って力いっぱい日野のほッぺたを殴りつけたそうです。日野は慌ててフトンの中からとびだして洋服をきました。
「ヤだなア。キミは礼儀知らずだよ」
「礼儀知らずは、あなたよ」
「ウソだい。男が女の身体にさわりたがるのは人情じゃないか。イヤなら静かに云っとくれよ。よッぽどショッてなきゃア、そんなことできやしない。さもなきゃア、キミはよくよくガサツなんだ」
「あなたを男あつかいしてないからよ。犬か猫だと思ってるから。必ずぶち返してあげるから」
「フトン一枚かしてくれないかな」
「ここへ寝なさいな」
「そうはいかないよ。自然の情というものは人間にはあるんだからね。木石じゃアないから、仕方がないよ。しかし、寒いな」
 秋でした。日野は座ブトンをしいて外套をひッかぶって寝てみたのですが、隙間風がたまらないから、外套をきて壁にもたれて坐り、膝の上にも座ブトンを当て腕をくんで睡りましたが、案外にも夜が明けるまでそのカッコウで睡ることができたそうです。
 トオサンが日野をシンから信用するようになったのは、その一夜の出来事が判ってからです。さすがに育ちだなアと全然斜陽族にきめこんでしまった次第ですが、オレの若いころはそんなことはできなかったものだというのがトオサンの述懐で、そう云われてみると、ぼくなぞもできない方かも知れませんが、しかしこれは日野がずるいせいなんです。
 奴は全部計算の上でやった仕業に相違ありません。八千代サンは洗いざらい人に喋ってしまうタチですから、その一夜の出来事がトオサンはじめ一同に筒ぬけになるにきまってるのを見ぬいた上での演技なんです。日野にとってはトオサンの信用を得ておくことがまだ処世上必要ですから、慾情をギセイにしても、トオサンの気に入るようにすることが得策だと計算したにきまっています。奴が八千代サンを愛してるのは確かですが、それは決してこの一人の女というような愛情ではなくて、肉体をもとめているだけの愛情にすぎないのです。
「八千代サンのオッパイはまだ小さくて堅いね。発育不完全というよりも、ちょッと不具者の感じだな」
 というようなことをふだん云ってたのですが、そんな云い方は無関心でも云えないし、軽蔑の念がなくても云えない性質のものだろうと思います。ですから彼が八千代さんに肉慾的な執着をもっているのは明白なんですが、トオサンの信用を得ておくためには、その執念を抑えることができる奴です。トオサンの信用を得ておく利益と云えば週に二三回ライスカレーにありつくだけのことなんですが、それでも一夜の肉慾よりはマシと見るところに彼の計算法の独自さを見るべきです。これは普通の人間にはできません。乞食根性が身にしみついているのです。生活の最低線を押えておこうという心の働きは誰にもあるかも知れませんが、奴のはその最低線がタダメシで、その週に二三回のタダメシのために愛慾をギセイにできるというのですから、まるでタダメシに身を売っているようなものです。働いて生きぬく人間の誇りなぞはないのです。シンからの乞食根性と云う以外に適当な表
前へ 次へ
全19ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング