ま挫折することがなかったのを見出したからです。つまり彼自身の兵隊性を自覚せざるを得なかったのでした。
ところが翌日の新聞に思いがけない記事がでていました。セラダと八千代サンは遠出ではなかったのです。セラダが酔っぱらッて運転していたために自動車を電柱にぶつけ、そこにでていた屋台をひッくり返して、自動車もひッくり返ったらしいのです。幸い死人はありませんでしたが、セラダは軽傷、八千代サンはやや重傷、ガラスでケガをしたらしいと想像されました。
日野は新聞をよむと、とるものもとりあえずのていで八千代サンが手当てをうけたという病院へ行ってみました。もうわが家へ戻ったあとでした。ケガは幸い顔でなく、ノーシントーとカスリ傷で大したことはなかったのです。けれども日野が彼女の家を見舞うことを怠らなかったのは、トオサンが小坂信二を咎めた剣幕をかねて奴めも聞き及んでいることですし、これもタダメシへの義理立てと見たのはヒガメでしょうか。
ところが日野は八千代サンの家人に甚しく冷遇せられたとのことでした。容疑者が警察でうけるような取り調べを入口でうけて、ともかく八千代サンの病室に通されることはできたそうです。
八千代サンは彼を見ると、枕をはねのけんばかりに、いきなり熱心に彼にたのみました。その目は火焔をふきました。
「ヒロポンとどけてよ。オマワリサンがハンドバッグ調べてヒロポン見つけて大目玉よ。ウチのヒロポンもお母さんにとられちゃッたの。だから、今度くるとき、ヒロポンと注射器もってきてちょうだいよ」
もうそろそろヒロポンがきれかけて、ややモーローとしているのです。日野の手首をつかんで思いきり強い力でグイグイひきよせ、自分もカラダをのりだしてきて、日野の頸に手をまきつけてねじりました。そしてくさい口で接吻したのです。グチャ/\とツバがベットリ日野の口ではなく鼻の下をぬらしました。日野は怖れて身をひきました。まだ足らなくて、さらにジリジリ身をひきましたが、それでも足りなくて立ち上ってしまいました。彼は鼻の下のベトベトしたツバをふいて、これも鼻の下の長いせいかと変なことまで思いついたりして、無性になさけなくなって、
「ぼく、もう、帰るよ」
「私、病気が治ると留置場へ入れられるわよ。ヒロポン見つかったんですもの。早く手をまわして、助かるように運動してよ」
「そんな手ヅルないよ」
「セラダに会いたいわ。会わせてよ」
日野はもうたまらなくなって部屋をとびだしてしまったのです。
しかし彼はその足でウチへくると、これをことこまかに報告して、落着きはらっていました。
「あすあたりからひどい禁断症状だろうな。精神病院ものかも知れないと思うよ」
薄笑いさえ浮べて、一向に動じた様子もなく云いきるところはややアッパレでした。奴も八千代サンの獣的異変と女性の退化性の確認によっていくらか大人になったのかも知れません。
そうこうしているところへ、トオサンと小夜子サンが疲れきって戻ってきました。ぼくたちはセラダ負傷の記事により隠遁の必要がなくなって出てきたものかと早ガテンした始末でしたが、そういう偶然があったために、トオサンもやや顔が立ったかも知れません。
ぼくはトオサンがセラダのことも八千代サンのことも知らないのに驚いて、二人が誰にも会わないうちに別室へつれこんで、留守中の異変を逐一説明に及んだのです。トオサンのおどろきたるや甚大でした。何よりも「おのが罪」の自覚にうちしおれてしまったようです。ぼくはこう慰めてやりました。
「誰の罪でもありませんよ。人間はこんなものかも知れませんな。変に甘やかすより、こうしてキマリがついたあとで、いくらかでも利口にと世話をやく方がハリアイがありますよ」
「そうだな。たしかに、人間はそんなものだ」とトオサンは変に決然と云いました。「こうしてみんなが茶のみ友達になるんだ。こうしてみんなが。そうだとも。どうしても、がんばらなくちゃアいけねえ。人間はもともとこうしたものなんだ。だがな。これだけのものだと思うと、まちがいだぞ。一寸の虫にも五分の魂と云うじゃないか。五分の魂は虫にもあるんだ。そうだとも。がんばらなくちゃアいけないのだぞ、人間はな」
ちょッと勇み肌めいたところがタヨリなくはありましたが、それはまたちょッと神々しいものでもあったのです。悲憤のマナジリを決せんばかりの形相でした。思えば中部山脈をつきぬけて日本海へでて以来、ずッと格闘つづきのあとにまたこれですから、悪鬼とでも組打ちを辞しないほどの闘魂もあふれたろうというものです。
トオサンは改めて小夜子サンの方をふりむき、肩に手をかけたわけではないのですが充分にその心持のあふれた姿で、
「勇気が大事だよ。なア。なんでもかんでも、がんばって、がんばりぬかなくちゃアいけないや。一度や二
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