いい。私が子供のころ、オジイサンがきかせてくれた話なんだが、何十年も術をみがいて剣術の奥儀をきわめた名人があったそうだ。ある晩野道を歩いていると怪しきものがヌーと前に立ったから、オノレ妖怪と抜く手をみせず斬り倒した。ところが斬ったものを調べてみると枯尾花だったんだね。そこで剣の名人が天を仰いで歎息して、心の迷いであったか、アア、わが術いまだ至らず、もはや生きるカイもなし、とその場にどッかと坐り刀を逆手にもって腹を斬ろうとした。その時だね。斬られた枯尾花が走ってきて、その切腹待った! シッカと侍の手を押えたというのさ。子供心にもこの話が妙に頭に残ってね。私は人にきいてみたが、誰もこんな変な話は聞いたことも読んだこともないそうだ。私のオジイサンが作った話かも知れないが、私はね、この斬られた枯尾花が走ってきてその切腹待ったとシッカと手を押えたという友情がしみじみと好きだねえ。こういう温い友情が茶のみ話の心持じゃアないかしらと思っているのだが」
「トオサンの子供のころのことをきかせて」
「そのころは頭がはげていなかったぐらいのことしか云えないなア。子供のころはああだった、こうだったと云える人がうらやましいよ」
「貧乏だったの」
「むろんだとも」
「お父さんは百姓だったの」
「漁師だったよ。お魚をザルにいれて私が町家の裏口から売って歩いたこともあるよ」
「寒いころ?」
「フシギに子供のころが思いだせない性分なんだな。停電の時やなにかに暗闇の中でふッと子供のころのことを思いだす時があるが、明るくなるともう忘れる。停電の時だけ昔にかえるというわけだ」
こういう旅行を七日七晩ほどつづけたのです。けれども、そのうち前三日はトオサンがカゼをひいてねこんでいましたし、後三日は小夜子サンがカゼをひいてねこみまして、要するにやむをえない七日七晩だったわけです。二人の看病は心がこもっていましたが、特別というほどではありません。要するに、特別のものはなかったのです。
二人だけ一しょに旅行するというのが、そもそも茶のみ友達の境地に反しているのかも知れません。それはいわゆる世間なみの愛人たちのやるべき通俗なことのようです。しかしトオサンはそんな反省にふけるよりも、自分のカゼと闘うことや小夜子サンのカゼと闘うことに必死でした。無我夢中と云っても過言ではなかったほどです。彼は自分の病気中は、わるい奴だ、わるい奴だ、と自分を責めつづけていましたし、小夜子サンの病気中も、オレがわるい、オレがわるいと自分自身を叱りながら小夜子サンの足をもみ、額の汗をふいてやり、一時も休まずに身も心も使っていたのです。
小夜子サンは熱につかれてウトウトし、ふと目がさめると、いつもそこにトオサンがいるので、うれしく思いました。いつも真剣にジッとひかえているのです。それはほとんど有りうべからざるような珍しい現象として小夜子サンをたのしませ、ふと目がさめるのがたのしみになったほどですが、あるいは寝ている最中に口笛を吹くと夢の中にトオサンがでてくるのではないかなぞと考え、トオサンと忠犬を混同して考えるような失敬な空想にふけることが多かったのです。
この最中に、東京は東京で異変が起っていたのでした。
★
阿久津の店の者たちはトオサンと小夜子サンの行方不明をさほど心配しませんでした。トオサンが苦心と熟慮のあげく小夜子サンをかくまっているのかも知れないねという見方の方が強く、感傷旅行というような考え方はトオサンと恋仇のぼくですらおかしくて考えられないほどでした。
しかし、セラダは怒りました。小夜子サンにジャンジャンチップをやったあげくのドロンですから、胸がおさまらなかったのでしょう。
その晩、日野が八千代サンをともなって来ていたのです。セラダはこの店ですでに何回も八千代サンを見かけその素姓も知っていたのですが、小夜子サンというものがあるのですから、ヒロポン中毒のチンピラ女流詩人にはハナもひッかけなかった次第です。
しかるにこの晩見直してみると、なかなか可愛い娘です。全然ミナリをかまわない娘ですから見るからにヤボな女学生姿ですが、それだけに磨けば光る麗質はむきだしに目をうち、磨いた場合の想像であれこれ逞しく色気を味うことができました。
彼はサントリーのハイボールを二ツ持って日野と八千代サンのテーブルへわりこみました。ウチは座敷のほかにテーブル席も、スタンドもあるのです。といっても極めてチッポケな店で、ナワノレンに毛の生えた程度、その毛もなるべく過少に考えた方がマチガイが少いでしょう。セラダは八千代サンにハイボールを献じましたが日野にはやりません。遠慮なく彼女の左手を握って、
「ネ、八千代サン。のんで下さい。ワタクシ、アナタ、好きです」
八千代サンもセラダに劣ら
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