度のシクジリでくじけるようじゃア、人間の値打はありやしねえや。しかし、八千代サンには、すまねえ」
 八千代サンのいる方角がどッちだか分らないものですから、誰もいない方へちょッと身をねじるようにして何をしたのだか誰にも分らないような素早い動作で合掌をやりましたが、てれかくしか急いで手拭をひッこぬいてハナをかんだりして忙しいことでした。長旅の疲れのせいもあって興奮もいちじるしい様子だったのです。小夜子サンは病後で疲れきっていましたが、これはまた天下の些事には一向に無関心らしくサバサバとカゲリはまったくありませんでした。セラダがいつかの心中の相手だったことなぞは思いだすこともできない様子に見うけられました。料亭阿久津は当分平和が訪れるかに思われたのでした。

          ★

 セラダの自動車事故にいよいよ決行の時節到来とみたのは法本でした。二世たちのなかには自動車事故も無理心中の仕損いではなかったかと疑るムキもあったほどで、事実そうかも知れないのです。奴もいよいよせっぱつまったわけですから、早いうちにやらないと、奴は本当に自殺してしまう怖れもあったわけです。
 そのころから法本はぼくを警戒するようになっていました。それというのが、ニセ貴族を仕立てての誘拐の件がぼくの見破るところとなったことを日野の報告で知ったからです。小夜子サンが無事戻ったと知ったとき、さっそく花束をもってやってきて、これを小夜子サンに捧げて、
「おめでとう。もうセラダも当分あなたをつけまわせないでしょうから」
 なぞとお愛想を云ったのは、むろん小夜子サンをものにしようとのコンタンもあってでしょうが、小夜子サンの身を案じたのがウソではないとの言い訳も半分はあってだろうと推察され、悪党らしくない不手際にぼくはむしろ苦笑を覚えたのでした。しかしぼくが彼にしきりに対抗感を覚えるようになったのは、彼の悪党ぶりに反撥してのせいではなくて、実はやっぱり小夜子サンを彼に渡したくないとの思いつめた気持からです。セラダの時はこれほどの気持は起らなかったのです。してみると、あるいはやはり悪党ぶりへの反感であったかも知れません。奴の悪党ぶりが気に入らないのは奴の存在を知った時からです。日野のほめ方が気に入らなかったのかも知れません。とにかくぼくは日野の言動にはことごとくと云ってよいほど反感をもちたくなってしまうのです
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