で、鼻をかむ汚い手拭しか持ち合せがなかったのでしょう。
「トオサンの気持がむずかしすぎるから、とてもにわかに返事ができなくッてよ。でもね。私、真剣に考えてみるわ」
 小夜子サンは長いことかかってアレコレと思案したあげく、ようやくこう返事をしたそうです。
 二人は南京街の支那料理屋で五六品のテーブルを食べましたが、食事の間中、トオサンは自分からは一言も物を云いませんでした。そればかりでなく、箸を使うのまでが怖しく不器用になって、はさんだ料理をしきりに皿の上だのテーブルの上へ落してイライラし、とうとう汗をかきはじめて、目をこすったり頭をこすったりするものだから、小夜子サンも見ていられなくなったそうです。そこで自分のお箸に料理をつまんで、
「ハイ」
 と云ってトオサンの口へ差しだしたところが、トオサンはそれをくわえようとして、にわかに気が変ったらしく、脣《くちびる》だけで軽くくわえようと変なことをしたものですからツルリとすべって、これも下へ落ちてしまいました。小夜子サンはさッそくもう一ツつまんで差しだしましたが、トオサンはそッぽをむいて受けつけようとしなかったそうです。
 トオサンの愛の告白はだいたいこんな次第でしたが、小夜子サンにとっては、これでも相当に深刻な衝撃でした。というのは、小夜子サンがセラダと熱海心中を決行したのはその翌日の出来事で、昏睡中のウワゴトにセラダの名を一度も叫ばず、ただトオサン、トオサンと思いだしたように口走っていたというのです。宿屋の番頭や女中はセラダのアダ名がトオサンと云うのだろうと思いました。トオニイ・タアニイというのもいますから、トオサンという二世がいてもフシギはないと思ったらしいです。熱海の赤新聞にはトオサンなる二世、とでていた由でした。トオサン、トオサンと二世の名をよびつづけ――と記事にでているものですから、この記事を発見した日野は理解に苦しみ、とにかくいそいでポケットの中へねじこみました。八千代サンがこれを読むとモーレツなヒステリーを起すに相違なく、かくてはわが身にも被害が及ぶと見てとったからでした。
 しかしこの記事を見せられたトオサンの感激は絶大なるものがありました。人目がなければまさに新聞を押しいただいたに相違ありません。
 小夜子サンを東京へ連れて戻ったトオサンは、ウチへ当分かくまうことにしました。そのころウチにはナギナタ二段
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