、つかみだしたいといふ意慾の果であり、個性的な思想に貫かれ、その思想は、常に書き、書きすることによつて、上昇しつゝあるものなのである。
けれども、小説は思想そのものではない。思想家が、その思想の解説の方便に小説の形式を用ひるといふ便宜的なものではない。即ち、芸術といふものは、たしかに絶対なもので、小説の形式によつてしかわが思想を語り得ないといふ先天的な資質を必要とする。
小説は、思想を語るものではあつても、思想そのものではなく、読物だ。即ち、小説といふものは、思想する人と、小説する戯作者と二人の合作になるもので、戯作の広さ深さ、戯作性の振幅によつて、思想自体が発育伸展する性質のものである。
明治末期の自然派の文学以来、戯作性といふものが通俗なるもの、純粋ならざるものとして、純文学の埒外へ捨て去られた。それは、実際に於ては、むしろ文学精神の退化であることを、彼らは気付かなかつた。
即ち彼等は、戯作性を否定し、小説の面白さを否定することが、実は彼らの思想性の貧困に由来することを知らなかつた。彼等には思想がなかつた。理想がなかつた。人生を未来に托して、常により高く生きぬかうとする必死
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング