落語・教祖列伝
飛燕流開祖
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)目明《めあかし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)百|米《メートル》
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目明《めあかし》の鼻介は十手の名人日本一だという大そうな気取りを持っていた。その証拠として彼があげる自慢の戦績を列挙すると、次のようなものである。
奴メが江戸で岡ッ引をしていた時の話。町道場の槍術師範、六尺豊かの豪傑が逆上して暴れだして道往く者を誰彼かまわず突き殺しはじめたことがある。腕自慢の若侍が数をたのんでとりかこんでも、またたくうちに突き伏せられてしまう始末で、同心も捕手《とりて》も近よれたものじャない。そのとき鼻介が十手をお尻の方へ落し差しにして、キリリとしめたハチマキをといてチョイと肩にかけ、
「ヘエ、チョイトごめんなすッて」
という手ツキをしながらニコヤカに近づいて行くと、あんまり何でもない様子であるから、豪傑はふと戸惑って、ハテナ、オレの後に銭湯でもあるのかナ、と実に一瞬の隙間。殺気と殺気の中間にはさまった絹糸の細さほどのユルミであるが、そこを狙って空気のように忍びこむ。ふと豪傑が気がついた時は鼻介はニコニコと槍の長さよりも短い円周の中へチャンとはいっていたのである。ここが手練《しゅれん》、イヤイヤ、武芸の極意というものだ。ニコヤカに何でもないような、むしろダラシないような歩きッぷりだが、この裏にある心法兵法武術の錬磨はいと深遠なのである。さて、槍よりも短いところへ入ってしまえば何でもない。お尻の十手を抜く手も見せず槍を叩き落して、豪傑の片手をとるや十手を当てがっと抱えこむ。逆をとるとみせて、豪傑の手をひく方へ十手をはさんで勝手にひきこませると、これでもう、豪傑は、
「アテテテテ……」
といって身動きができないのである。
「ナ。オレが十年かかって編みだした極意というものは、槍でも刀でも、かなわねえや。十手てえものは唐《から》の陳先生てえ達人が本朝に伝えた南蛮渡来の術だが、オレのはヤワラの手に心学の極意も加えて、タマシイを入れたものだ。生れつきがなくちゃダメだぜ。ツといえばカという生れつきのコナシがなくちゃアいけねえや。ハッハッハ」
というのが彼の説である。
あるとき日本橋の大きな店へ三人の武芸達者の浪人が強盗にはいった。機転のきいた小僧の一人がソッとぬけだして、自身番へ駈けこむ。これはもう鼻介でなくちゃアいけねえというので、真夜中に叩き起されて、十手をチョイとお尻の方へ落し差しにして、でかけた。雲をつくような浪人が三人、主人の枕元へ刀を突きつけて、千両箱をださせているところだ。へ、今晩はと部屋へはいって、
「千両箱は重うござんすよ」
などと云いながら、お尻の十手を手にとって、チョイ、チョイ、チョイと三人の腕や背や胸をつくと、三名の豪の者が麻薬のお灸にかけられたように痺れてしまった。
素人が見たのでは、人間の身体は脆いようでも丈夫なもの。刀で斬れば血がでるが、拳でなぐったってコブはできても、それだけのことだ。ところがあらゆる人間には弁慶の泣きどころという急所が全身に五百六十五もあるのだ。名人がそこの一ツをチョイとやると、天下の豪傑でも麻薬のお灸にかけられて痺れてしまうのである。
凄かったのは、上野のお花見の時。ウーム、見事なものだなア、と鼻介が桜の下を歩いていると、行手に当って花見の人々がワッと逃げてくる。何事ならんと駈けつけると、十一名の悪侍が、美しい娘を二人つれたオジイサン侍にインネンをつけ、果し合いになったのである。悪侍の親玉は手の立つ奴と見えて、片手はフトコロ手をしたまま、片手の刀でジイサンをあしらッている。ジイサンはジタリジタリ脂汗をしたたらせて顔面蒼白息をきらして後退する。他の十名は笑いながらジイサンがナブリ殺しにされるのを見物しているところであった。
「へ。どうも。お待ちどう。しばらくでござんす」
と云って、鼻介が刀と刀の間へわってはいると、悪侍の親玉は目をむいて、
「なんだ。キサマは」
「へ。左様でござんす」
「何者だ」
「へ。豆腐屋でござんす。コンチは御用はいかがで」
「コノ無礼者め」
悪侍の親玉はカンカンに立腹して抜く手も見せずと云いたいが、もうチャンと抜いている。そのままの位置では斬るにも突くにもグアイの悪いところへ鼻介が立っているから、エイッとふりかぶって一刀のもとに鼻介を斬り伏せようとする。とたんに後へひッくりかえって、刀をふりあげたまま、ドタリと倒れてムムムとのびてしまった。鼻介の足が急所をチョイと蹴ったのである。
のこった十名の悪侍が、生意気な下郎めと刀を抜き放って迫ったから、十人にとりまかれては一大事。アバヨ、と逃げる。その足の速さは青梅村の百兵衛だって遠く及ばない。そのころはオリムピックがなかったから仕方がないが、百|米《メートル》からマラソンまで鼻介の記録を破る者は今でもいないというほどのイダ天である。けれども、そう離しては相手がついてこないから、切先から五六寸だけ間をもたせて鬼ごっこをする。名人になると全身に鉄を感じる作用がそなわるから、後を見なくても敵の刀の位置がわかるのである。つまり術と錬磨によって電波探知機を身にそなえているのである。敵はそうとは知らないからもう一息で芋刺しに、と夢中で追う。一人にだけ追わせると他の者が退屈して諦めるかも知れないから、ヒョイと身をかわして横へとび斜にずれては他の者の切先五六寸のところへ背中をおいてやる。もう一息で届きそうだから息がきれて目がくらんで何も見えなくなるまで我を忘れて追うのである。十分もたたないうちに十名の者が完全にへばって、あっちに一人、向うにも一人というように、まるで天からまいたように、八方にのびていたのである。
「ナ。極意というものは、斬る突くだけのものじゃアねえや。術により、錬磨によって、全身に感じる作用がそなわるな。凡人は触れないと分らない。だが、見どころのある者は生れながらにして、三尺から一間の近さまでは物の迫る気配を感じるものだ。これを錬磨によって三間ぐらいまで延すことができるが、オレのは、又、別だな。七間、十間、十五間と感じることができらア。だが十五間も離れたものを感じるのじゃアねえや。迫る物の速力に応じて身をかわす速力の早さが、十五間も距離のある敵の姿を感じることに当るという理窟だな。これぐらいになると、夜道で、弓の矢で狙われようと、鉄砲のタマがとんでこようと、チョイと身をかわしてしまうなア。だが五寸、一寸五分、七分とヒカリモノの距離をこまかく感じ当てるのは、又、甚しくむずかしいや。ハッハッハ」
こう自慢する。奴めは気どって漢語のようなものを使うのである。
「なんだ。この野郎。みんな江戸の話ばッかしらねッか。この町に来てから本気に誰《ダ》ッかが見ていた腕前の話がききてもんだわ。一ツも無かろが」
「ハッハ。この土地には気のきいた泥棒一人いねえや。生れた土地へ戻ってきたのが運のつきだな。江戸で目明の鼻介サマと云えば千両役者と同じように女の子が騒いだものだ」
とアゴをなでている。
そこで城下町の町人たちは、高慢チキな鼻介の野郎め、一度ヒドイ目にあわせて鼻を折ってやりたいものだと考えていた。
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城下町から三里ほど離れたところに由利団右衛門という分限者《ぶげんしゃ》がいた。どれくらいの大判小判を持っているか見当がつかない。一枚ずつ並べると海を渡って佐渡までとどいて島を七巻きするそうだという話である。代々の殿様は勝手許不如意の時には代々の団右衛門から金をかりる。決して返すことがないが、借金というのである。家老なども密々借りにくることがある。だから別に威張りもしないが、大そう格式を持っている。
団右衛門の愛妾のオトキというのが同じ村に立派な妾宅を造ってもらって莫大な財産を分けてもらったが、年ごろの一人娘がいるだけで、男の子がいない。そこで聟をさがしているが、本宅にくらべれば百分の一ほどの家屋敷財産とは云え、旦那様の来遊ヒンパンな妾宅だから、数寄をこらし、築山には名木奇岩を配し、林泉の妙、古い都の名園や別邸にも劣らぬような見事なもの。お金だって千両箱の五ツぐらいは分けてもらっている。けれども妾宅のことだから、身分のあるところから養子を貰うわけにいかない。
ところがオトキという妾が利巧者で、妾などというものでも人が大事にしてくれるのは旦那様が生きているうちだけのこと。旦那が死ねば妾の子などは村には居づらくなるだろうし、誰も大事にしてはくれない。今は人の羨む金があっても座して食えば山でもなくなるという通りのものだ。オトキはこう考えているから、娘の聟は低い身分の者でタクサンだ。実直で、利巧なところもあって、働きのある男を見込んで聟にとり、城下町へ店でも持たせて、末長く一本立ちができて子孫が栄えるようにさせたいものだと思っている。
ところが娘のオ君というのが年は十六、かほどの美形がお月様や乙姫様の侍女の中にも居るだろうか、居ないであろうというほどの宇宙的な美人である。実直で、利巧で、働きがあれば、藪神の非人頭段九郎の配下の者でも聟にとるそうだ、という噂がひろまったから、近郷近在は云うまでもなく、遠い他国の若者に至るまで、意気あがり、心の落ちつかざること甚しい。ために十里四方の若い者は各々争って働きを誇り、怠け者が居なくなったというほどの目ざましい反響をよんでいる。
ところが目明の鼻介の野郎が三里の道を三町ほどの速さで歩いて、団右衛門の妾宅へ毎日のように出入りしていることが知れたから、若い者から年寄に至るまで、アンレマと驚いて、腹をたてた。
独り者といったって鼻介の野郎は三十に手のとどいた大ボラフキの風来坊。ヤモメ暮しというだけで、花聟という若い者の数の中にはいるような奴ではなかった。あの野郎、身の程もわきまえぬ太え野郎だと皆々立腹したけれども、よくよく考えてみると、どうも都合がよろしくない。
鼻介の野郎は十一二から江戸へ奉公にでて、三十にもなって女房もつれずに故郷へまいもどった風来坊であるが、段九郎の配下の者でも身分は問わないというから、あの野郎が不都合だという理由にならない。
見どころのある人間だとは思われないが、困ったことには、コマメであるし、機転がきくし、手先の細工物にも妙を得ており、人が十日でやるようなことを一日で仕上げて済ましているようなズルイ奴だ。田舎では、こういう奴をズルイ奴だといって、正しい人間の仲間には入れないけれども、オ君の花聟の条件に照し合せると、正しくてグズで間違いのない当り前の人間よりも、あの野郎の方に都合良く出来ている傾きがある。正しくてグズで間違いがないのがこの土地の人間、ズルイ奴はよその者にきまっているのだが、ズルイということは善良でない人間の目から見ると、小利巧で働きがあると見えない節がないようだから困ったものだ。妾などというものは魔物であるから油断もできないし、考え方も狂っていようというものだ。
実直、といえば、それはこの土地の人間の美点のようなものであるが、あの野郎ときては酒をのまないという妙な野郎だ。雪国の人間は生涯ドブロクと骨肉の関係をもつものだが、よそ者のズルイ見方によれば、酒をのまないということが実直という意味の一端をなしているのかも知れない。生き馬の目をぬくとはこのこと、実に油断がならない。
田舎には盆踊りというものがある。これが田舎のよいところで、女郎だの淫売などという者はない。年々交際を新にし、寝室への門をひらいて、若者の性生活を適正健康ならしめるのである。鼻介の野郎ときては、十手をちらつかせて大ボラを吹きまくるくせに、この土地では色女が一人もないというシミッタレた野郎である。こういう奴は男の面ヨゴシ、天下の恥カキ者、いい若い者の仲間はずれという奴で、バカかカタワでなければ有りうべからざる奇怪事であるが、よそ者のズルイ目から見ると、それも実直という意味になるらしい怖れがある。江戸は生き馬の目をぬく
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