時にはじまる。彼女の一生の悲しみは、この時よりはじまった。
一度びミコサマの目ガネにかない、膝下に育てられることになると、大変なものだ。まるで花が咲いたような美しい特別の着物を年中着せられている上に、七ツ八ツから紅オシロイまでつけているのである。第一、用いる言葉も違う。ジャベだのアンニャだのシッペタだのゲェルマッチョ(蛙のこと)などという下賤な言葉は禁止される。こういうモロモロの下賤なることを禁止される特別なアネサはなんとまア素晴らしいことであろうか。
ミコサマは正月十五日と春秋二度の祭礼に舞いを舞う。鈴舞いと云って鈴をふって舞うのであるが、そのアイノテに、ちょッとナギナタを持って現れることもある。しかし、それも舞いの手のようなもので、調多羅坊の奥の手をしのぶことはできないのである。
しかし村のジサ、バサの言うところによると、なんでもないナギナタの舞いのように見えて、しとやかに、やさしく、美しく、あでやかな差す手引く手にすぎないが、この奥には無限の修錬がつまれていて、ミコサマはナギナタの奥儀に達し、そこに至るまでには、実に泣き、血を吐かんばかりの苦しい修業をつまねばならないのであるという。ミコサマの生涯は、美しく着飾り、うまい物をたらふく食べて威張りかえっているようであるが、どういたしまして。七ツ八ツから、人の寝しずまった深夜に、冷水を浴びせられてミソギをさせられ、つらい悲しい修業をつまされているのだ。だから、とても並の人間にはつとまらない。ミコサマはアンニャが腹の中にいるうちから、生れてくる村の女の子に目をつけて、特別のジャベを物色しているのだそうである。
オトコジャベと呼ばれるぐらいだから、オレがミコサマの目にかなう特別のジャベだろうと、クマは七ツ八ツのとき、自らひそかに恃《たの》んでいた。そして祭礼のとき、ミコサマが舞いを舞うと、自分の方ばかり見ているような気がして、あかくなって、顔を上げることができないのである。
当ては外れた。ミコサマはあんなにジッと自分を見ていたのであるから、そんな筈はないのであるが、オソメというどこにもここにもあるジャベの一人にすぎないのが選ばれてミコサマにひきとられてしまったのである。ちょッと突いても、スッとんで泣きだすような女の子で、なんの取柄もないのに、世間は案外なもので、
「オソメがミコサマの目ガネにかのうたてや。大し
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