てゐるかと思つて、何本よりも熱意に燃えて読んだほどだつた。
私は近頃発禁になつたといふ「猟奇」だの「でかめろん」だの「赤と黒」だの「りべらる」を読む人々が、健全にして上品なる人士よりも猥セツだとは思はない。私も、もし、カーマスットラを読んだ頃のこの現実に絶望しない童貞の頃だつたら、まつさきに、これらの雑誌を読んでみたに相違ない。不幸にして、今はもう読んでみる気にもならないです。私の方が、よつぽど、その道の達人なんだから。すくなくとも、私は退屈してゐるのです。
春本を読む青年子女が猥セツなのではなく、彼等を猥セツと断じる方が猥セツだ。そんなことは、きまりきつてゐるよ。君達自身、猥セツなことを行つてゐる。自覚してゐる。それを夫婦生活の常道だと思つて安心してゐるだけのことさ。夫婦の間では猥セツでないと思つてゐるだけのことですよ。誰がそれを許したのですか。神様ですか。法律ですか。阿呆らしい。許し得る人は、たゞ一人ですよ。自我!
肉体に目覚めた青年達が肉体に就て考へ、知らうとし、あこがれるのは当然ではないか。隠すことはない。読ませるがよい。人間は肉体だけで生きてゐるのではないのです。肉体に就て知らうとすると同じやうに、精神に就て、知らうとし、求めようとすること、当然ではないですか。
「猟奇」「でかめろん」等々を読ませた方が、さういふものに退屈させる近道だ。読まなければ空想する。そしていつまでも退屈しない。読ませれば、純文学のケチなエロチシズムなどには鼻もひつかけなくなるから、文学は純化され、文学の書き方も、読み方も正しくなり、坂口安吾はエロ作家などといふ馬鹿げた読み方もしなくなるだらう。
舞台でも、さう。露出女優や露出ダンスがハンランすれば、芸術女優の芸術的エロチシズムは純化され、高められる。
露出だの猥本などといふものは、忽ち、あきてしまふものですよ。禁止するだけ、むしろ人間を、同胞を、侮辱してゐるのです。さういふ禁止の中で育てられた諸君こそ、不具者で、薄汚い猥漢で、鼻もちならない聖人なのだ。人間は本来もつと高尚なものだよ。肉体以上に知的なものですよ。露骨なものを勝手に見せ、読ませれば、忽ちあいて、諸君のやうな猥漢は遠からず地上から跡を絶つ。
肉体なんか退屈ですよ。うんざりする。退屈しないのは、原始人だけ。知識といふものがあれば、退屈せざるを得ないものだ。快楽は
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