壊混乱の時代に於ても、かゝる表出は礼儀化されぬ性質のものであるかも知れない。貝原益軒先生は只今房事中と来客を断られた由であるが、私はかういふ聖人賢者は好きではない。こんなところは何も正直に言ふことはないさ。只今所用があるからぐらゐで充分で、かういふ惨めな正直づらは、私はイヤだ。
文学はかういふ芸のない正直とは違ふ。かういふ時には嘘をつく人生を建前とするのが文学のもとめる真実です。
だが、諸君は各々の私事に於て、正しいこと、自ら省みて正しいと信ずることを行つてゐられるか。諸君は信じてをるかも知れぬ。然し、それが、自ら省みること不足のせゐであり、自ら知ること足らざるせゐであることを、さうではないと断言し得るや。カトリックに於ては、善人は天国へ、悪人は地獄へ、生れたばかりの赤ん坊は煉獄(ピュルガトワル)へ行きます。日本では普通、煉獄を地獄よりももつと悪い所のやうに考へてゐるが大間違ひで、ピュルガトワルとは天国と地獄の中間、即ち善ならず悪ならず、無の世界で、赤ん坊は善悪に関せざる無だから赴く。私自身の宗教に於ては、赤ん坊だけではない、自ら省みて恥なしなどゝいふ健康者はみんな煉獄へ送つてしまふ。人間の真似をしてゐる人形だから。
諸君は夫婦であり、恋人達だ。諸君は男女の道を、恋人の道を行ひ、満足ですか。不安ではないのですか。平気ですか。幸福ですか。
快楽ほど人を裏切るものはない。なぜなら、快楽ほど空想せられるものはないから。私の魂は快楽によつて満たされたことは一度もなかつた。私は快楽はキライです。然し私は快楽をもとめずにゐられない。考へずにゐられない。
諸君は上品です。私事に就ては礼儀をまもつて人前で喋らず、その上品さで、諸君の魂は真実ゆたかなのだらうか、真実高貴なのだらうか。
すべて人間の世界に於ては、物は在るのではなく、つくるものだ。私はさう信じてゐます。だから私は現実に絶望しても、生きて行くことには絶望しない。本能は悲しいものですよ。どうすることも出来ない物、不変なもの、絶対のもの、身に負うたこの重さ、こんなイヤなものはないよ。だが、モラルも、感情も、これは人工的なものですよ。つくりうるものです。だから、人間の生活は、本能もひつくるめて、つくることが出来ます。
私は童貞のころ、カーマスットラを読み、アナーガランガを読んだ。そこに偉大な真実、現実の哲理が語られ
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