上を書いたのが運の尽きで、改造だの青磁社だのまだ出来上らないサルトルの飜訳のゲラ刷だの原稿だの飛び上るやうな部厚な奴を届けて汝あくまで読めといふ。これ実に、人泣かせの退屈きはまる本ですよ。街頭で酒店で会ふ人ごとにサルトルはいかゞとくる。まるで私が今サルトルと別れてフランスから帰つたやうな有様だから、私もつい癪にさはつて、うん、シロでサルトルとシャンパンにカレヒのヒレを落してオカンをした奴をのんだよ、うまくなかつたね、然し実存主義よりはいくらか清潔な飲み物でした、などと言ふ。すると中には、へえ、シロつてのは何ですか。君シロを知らないですか。プルウスト先生行きつけのパリきつての上品なレストランです。こゝでシャンパンを飲んだのは日本人で拙者ぐらゐのものですよ、とおどかす。すると、へえ、あなたが、と云つて、私の行きつけの怪しき飲み屋の怪しき構へを改めてジロ/\見まはしたり、又は私の怪しき洋服に目をつけたりする。巴里へいついらつしやつたんですか、ときくから、君冗談ぢやないぜ、僕は日本にいくらもゐやしないよ、戦争になつて、やむなく交換船で追ひ返されてきたのだ、実存主義なんて八九年前に僕がモンマルトルの屋根裏で寝言のつもりで言ひだして、今はもう忘れてしまつたんだ。執念深く覚えてゐるのはサルトルぐらゐのものだぜ、と云つて、あとはクダをまいてしまふ、といふテイタラクである。
 作家は弁明を書くべき性質のものではない。書くが如くに行ひ、行ふごとく書き、わが生存、わが生き方がそこに捧げられてゐるのであるから、他の何物を怖れるよりも、自我自らを偽ることを怖れるものであり、すべてが厳たる自我の責任のもとに書き表されてゐること、元より言ふまでもない。社会的責任の如き屁の河童ではないですか。論ずるだけがヤボであり、さういふ文学以前の問題にかゝづらつて一席弁じるサルトル先生も情ない先生だが、作家に向ひ弁明などと注文せられる向きの編輯者諸先生は先づ以て三思三省せらるべし。
 諸君は各々の家に於て日常何をしてをられるか? 思ふに諸君(以下、君の中には女の方も入れてありますから)は、父であり、母であり、子であり、良人《おつと》であり、細君であり、恋人であり、諸君も亦、男女の道を行はれること当然ではないか。かゝる私事は之を人前にさらけだすべきものではなく、礼儀に於て、常識に於て、さうである如く、如何なる破
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