日も椅子をふりあげて殴ぐられた、などと訴へられたのである。又周期的にやつてゐるな、と思つただけで、時間が経過するうちに再び健康と平和がもどるものだと思つてゐた。
 私が始めて牧野さんを知つたのは二十六歳の夏で、その時牧野さんは三十六だつた。その春私は自分のやつてゐた「青い馬」といふ同人雑誌に「風博士」といふのを書いた。私は斯様なファルスが一つの文学であることを確信はしてゐたが、日本に先例のすくない作品であり世評もわるく自己の文学上の信念に疑惑すら懐きはじめてゐた。ところが文藝春秋で牧野さんがこの作品を激賞した。私はむしろ唖然としたばかりで、自分の信念にひびの這入つた私は牧野さんを訪ねる勇気も手紙を書く元気もなく、とにかく自分を立て直すつもりで「黒谷村」といふのを書いたが、新聞の文芸時評で牧野さんは再び「黒谷村」を激賞してくれ、同時に遊びに来ないかといふ地図入りの手紙(この地図の出鱈目さつたらない、道の方向が全然逆であつた)を呉れた。その時はじめて牧野さんに会つたわけだが、当時彼は大森山王に一戸を構へ、丁度春陽堂から「文科」の発刊される時で、私は初対面の日「文科」に長篇を連載するやう慫慂
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